松本雅弘牧師の日々のみことば

月曜から金曜の毎朝、高座教会の牧師からメッセージをお届けします

月別: 2018年7月

羊飼いの喜び

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」(ルカ15:4−6)

 ある日、いつものように徴税人や罪人たちがイエスさまのお話を聞きにやってきました。そして話が終わると、みんなで楽しく食卓を囲んだのです。
 それを見ていたファリサイ派の人や律法学者が、嫌そうな顔をして言い始めました。
「この人は罪人たちを呼んで一緒に食事をしている。どうしてこんなことをするのか。」
 イエスさまはそれを聞いて、悲しい顔をされました。神さまに選ばれたイスラエルの「偉い人」達なのに、神さまの御心が全く分かっていなかったからです。そして「見失った羊の譬え話」をされたのです。

 ところで、群れからはぐれてしまった1匹の羊。きっと独りぼっちで寂しかったと思います。狼のことを考え始めたら、不安で心細かったことだと思います。
そのようにしてトボトボ歩いているところに、遠くの方から羊飼いの声が聞こえてきて、自分のことを見付けてくれて、その方に背負われたら、泣きたくなるほど嬉しいことでしょう。

 では、羊飼いの方はどうだったでしょう?
 大事な羊が狼に食われてしまったんじゃないか、とか、崖から落ちて傷だらけになってないだろうか、とか・・。ずっと心配し続けていたので、見つけた時は大喜びだったと思います。
たぶん、見つかった時は羊以上に羊飼いの方が、もっと嬉しかったのではないかと思います。
 神さまに見出されたあなたも喜んでいることでしょうが、神さまはもっともっと喜んでおられます。神さまはあなたのことを、それほど大切に思っておられるのですから。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

恵みの道を歩む夫婦―プリスキラとアキラ

「キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスキラとアキラによろしく伝えてください。この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。
この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。またその家の教会によろしく伝えてください。」(新改訳 ローマ16:3−5)

 コリントでのパウロの宣教を支えた夫婦がいました。紀元52年頃、皇帝クラウデオは全てのユダヤ人をローマから追放するという勅令を出しました。
この時にローマからコリントにやってきたのがアキラとプリスキラ夫婦でした。
 パウロはコリントで1年半にわたり御言葉を教え続け、彼らはそのパウロを支えたのです。想像ですが初代教会の最も偉大な聖書教師による18ヶ月の集中聖書講義です。
アキラとプリスキラは、どれほど恵まれたことでしょうか!

 ところで、この夫婦、いつも2人の名前が仲良く一緒に出て来るのですが、聖書に6回、彼らの名前が出てくる中で、その内の4回、妻プリスキラの名が先に出てくるのです。
男性中心の当時として異常なことでした。
 では、どうして順序が入れ替わったのでしょうか?ある人は、プリスキラのほうが賜物に恵まれ、それ故に目立った役回りが多かったからだと説明します。けれども、それだけでしょうか?
 この夫婦はどちらが上か下かではなく、お互いのあるがままを受け入れ、愛し合っていたのだと思います。神さまが自分をあるがままに愛してくださっているので、相手をそのままで愛そうと努めていた。
その結果、仮に妻が自分より能力があっても脅威を感じ、恥ずかしく思う誘惑から自由でした。逆に、そうした賜物を妻に与えた神さまをほめたたえて生きたのがアキラだったのだと思うのです。
 まさにパウロが教えた恵みの道を、夫婦共々歩むことができたのです。
 あなたのご家庭はいかがですか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

神に愛されている子どもとして

「あなたがたは神に愛されている子どもですから、神に倣う者となりなさい。」(エフェソ5:1)

 聖書の福音は、私たちが一生懸命頑張り、真面目にやり、私の側ですべきことをしっかりしていないと天国に行けない、と思われることを教えています。
 時々、親が子どもを動かすために、「一生懸命やらないと、おやつやらないよ」とか、「真面目にやらないと、後で大変な目に遭うよ」などと言って脅して動かそうとすることがありますね。
でも神さまは決してそうしたことをなさいません。
 一方的な恵みによって罪を赦し、神の子とした私たちが、キリストにつながり、その与えられた恵みにふさわしく生きていくようにと励ましてくださるのです。
 ですから、今日の聖句を見ますと「あなたがたは神に愛されている子どもですから、神に倣う者になりなさい」と説かれているのです。
 「あなたはもうすでに、神に愛されている子どもなのですよ」と、まず神さまとの関係が回復された私たちがどのような者とされているのかをパウロは思い起こさせるのです。
 その後で、「愛されている子どもらしく振舞いなさい」と具体的な生き方について教えています。

 ところが逆に、「神さまに倣う者になりなさい。そうすれば、神に愛される子になれますよ」は、聖書の教えではありません。
 まず、神さまとの生きた関係に導かれ、神さまとのつながりの中から、その恵みにふさわしい生活が出てくるのです。
 「神さまの恵みによって、もうすでに愛されているから、愛されている者として歩んでいきなさい。もうすでに聖くされていますから、聖なる者として具体的な歩みをしてそのことを証しするように祈っていきなさい。・・・」とパウロは勧めているのです。
 この順序が大切です。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

御言葉にとどまる

「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。』」(ヨハネ8:31)

 イエスさまの御顔を肉眼で見、またその御声を実際に耳にしたペトロやヨハネやヤコブたちを羨ましく思ったことはありませんか?
 イエスさまの背丈はどのくらいだったんだろう、とか。その御顔はどうだったのだろう?また、どんな声の調子で神の国の福音を説教されたのだろう、と考え始めたら切りがありませんね。
そうなるとなおのこと、その場に居合わせた弟子たちは、何と恵まれた存在だったかと思います。

 でも、どうでしょう?イエスさまは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当のわたしの弟子である」とお語りになりました。
 イエスさまの御顔を肉眼で見たり、その教えを直に聞くことが弟子の条件ではありません。イエスさまの言葉にとどまる者こそが、イエスさまの本当の弟子なのだ、と今日の御言葉は教えています。
 ですから、今の時代でも、イエスさまの弟子として生きる道は、豊かに備えられていることを覚えましょう。
イエスさまは、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当のわたしの弟子である」と言われました。

 ところで、あなたにとってイエスさまの言葉にとどまる、ということは何を意味しているでしょうか?
主の言葉を聞いて、そしてとどまる。時間をかけて思いめぐらすこと。心に残った御言葉を暗誦すること。その御言葉を生活の中で実践してみること。
こうした1つひとつのことが、御言葉にとどまることだと思います。
 今日、あなたはどのように御言葉にとどまり、イエスさまの本当の弟子としての歩みを進めて行かれますか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

前もって準備してくださった善い業のために

「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」
(エフェソ2:10)

 再献身を迫られたペトロの視界に「ライバル」ヨハネの姿が飛び込んできました。そんなペトロに、主は「あなたは、わたしに従いなさい」と言われたのです。
 この箇所は、私自身、よく思い起こすところです。私たちはよく他の人のことが気になるものです。愛すべき兄弟姉妹、協力すべき同労者たちを「ライバル」視し、いつのまにか比べ合うことをしていないでしょうか?
 そうしたことで時間を無駄にしていたら、神さまがあなたのためにと備えてくださっている善い業を、誰があなたにかわって生きてくれるのでしょうか?!

 以前、こんなことがありました。アメリカからM牧師が来られた時、その先生を囲んで会食会をしました。するとM牧師が私の印象を他の牧師たちに訊ねたのです。

 「松本牧師をどう思う?」

 びっくりしました。〈何で、そんなこと聞くんだろう・・?〉と急にその場が白けた雰囲気になったのを肌で感じ取りました。
たぶん、比較的規模のある高座教会を牧会しているので、その評価を聞きたかったのだと思うのです。
 少しして一人の牧師が口火を切りました。「気の毒だと思う」。「いつも忙しくて、本当に気の毒だと思う・・」と。
 その言葉を聞いた私は、複雑な気持ちになりました。〈気の毒がられているんだ・・・〉。やるせない思いになりました。そしてしばらく落ち込みました。
 でも、この出来事をきっかけに、もう一度、神さまが私のためにと備えてくださっている「善き業」を再確認させられたように思います。
 今日も神さまは、あなたのためにと善き業を備えてくださっています!

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

祭壇を築く生活

「主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。『さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。
あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。』
アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。」
(創世記13:14−18)

 アブラムが天幕を写して住み着いた土地は、おいのロトが選ばなかった方の土地でした。それはある意味で「残りもの」です。
 でも、真の意味であなたを支え生かすのは「土地」そのものではなく、その土地をも与えてくださる主なる神さまなのです。
 ともすると私たちは「土地」そのものが私を支え生かすものであると錯覚することはないでしょうか?アブラムの時代の人々にとっての「土地」は、今の私たちにとっては「会社」や「仕事」、「学校」や「貯蓄」であったり・・。
でも、よくよく考えてみれば、そうした会社や仕事や学校や蓄えも、神さまからの恵みの賜物に過ぎません。
 主なる神さまはアブラムに、「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。」と、以前アブラムと結ばれた恵みの契約を思い起こさせたのです。
 その恵みに応えるように、アブラムは新しく移り住んだ土地に祭壇を築くところから始めました。それは、自分を生かすのは「土地」ではなく、「土地」を含めすべての恵みを備えてくださる主なる神さまなのだとの信仰を表明する行動でもありました。

 ところで今日あなたは、恵み深い神さまにどのように信仰の応答をしますか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

選択する責任

「あなたの御手はわたしの助けとなるでしょう/あなたの命令を選び取ったのですから。」(詩編119:173)

 レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」をご存じでしょうか。
 ダ・ヴィンチはその絵を描く時に、イエスさまと、そして12弟子のモデルを捜したそうです。
 すでにイエスさまを描き、弟子たちも描いたのですが、イスカリオテのユダのモデルとなる人が見当たりませんでした。
また、たとえそうした人物が見つかったとしても、「ユダのモデルをお願いしたい」とはなかなか切り出しにくいお願いでした。

 ある日、ダ・ヴィンチは、いつものように街に出てユダのモデルを捜し歩き始めたのです。すると、ちょうど道端のところで暗い顔をし、泥だらけの服を着て、酒に酔い潰れ、横になっている男を見つけたのです。
彼の姿、彼の疲れた表情、額に刻まれたしわを見た瞬間、〈彼こそ、私がイメージしているユダそのものだ!〉と直感しました。そして勇気を出して彼にモデルになって欲しいと願ったのです。
 「すみませんが、実は、お願いがあります」とダ・ヴィンチが切り出し、「最後の晩餐」に登場するイスカリオテのユダのモデルになって欲しいと頼んだそうです。
 すると彼はダ・ヴィンチの顔をまじまじと見て言いました。
 「実は、2年ほど前、あなたに頼まれて、イエスのモデルになった男が私です。」

 この物語は、1人の男がイエスさまのモデルにもなりうるし、またユダのモデルにもなりうることを雄弁に語っているように思います。
 神さまは私たち人間を神のかたちに似せてお造りになりました。ロボットとしてではなく、主体的に御心を選んで命の道を歩む喜びにあずかるようにとお造りになったのです。
 今日のあなたの選びは、明日のあなたの姿と深く関係しているのですね。イエスさまに守られ、命の道を選びとっていきましょう!

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

成長を求める祈り

「あなたがたは神に愛されている子どもですから、神に倣う者となりなさい。」(エフェソ5:1)

 時々、自分がイヤでイヤでたまらなくなることがあります。他人と比べて落ち込むこともあります。なんでこんな私なのだろうと・・。
でも、そのような時、十字架を仰ぎ見るようにと導かれるのです。それによって御子を与えてくださるほど、こんな私をも愛してくださることを覚えさせられます。
 ですから「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し・・」との語りかけを、常に心に響かせていたいものですね。
 さて、お子さんやお孫さんたちは夏休みを元気にすごしていますか?
 今日は子どもたちの成長を覚え、心を合わせ、次の祈りを捧げたいと思います。

 創り主なる神さま。子どもたち一人ひとりをみ心のままに成長させてください。あなたは、走り寄って来る子どもたちを抱き上げ、み手をおいて祝福してくださいました。
どうぞ私たちの子どもたちをみ腕に抱きしめ、み手を置いて祝福してください。あなたのご愛を豊かに注ぎ、その恵みを胸一杯に吸い込むことができますように。
そして、あなたに愛され、受け入れられ、必要とされ、生かされていることを心の底から実感できますように。私たちも一生懸命育てますので、その為の必要を満たしてください。

 神さま。子どもたちが神さまに信頼し、小さな手をあわせて祈る姿を見るとき、感動を覚えます。誘惑の多い時代です。ですから、どうぞ、子どもたちがあなたを知り、身も心も成長しますように。
そして、イエス・キリストを告白する日が来ることを切に望みます。
 子どもたちによって私たちの心の目も開かれます。将来、神のみ心が成就される確かな神の愛を信じて励むことを学び、子どもたちと共に親である私たちも成長させてください。
 主にみ名によって祈ります。アーメン。

 今日の一日、健やかにしなやかに歩まれますように。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

イエスさまの赦しの愛

「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。」(1コリント12:21)

 保護観察中の女子中学生がいました。彼女が学校の授業で老人ホームの介護体験をしたのです。
最初は嫌々やっていましたが、帰り際にお年寄りが手を握って「ありがとう、明日も来てくれるんでしょう?」と言ったそうです。
その一言を聞いた瞬間、彼女の心に何か言い知れない感動が湧き、目からは涙が流れたそうです。その後、彼女は介護福祉士になろうと決心し、現在その職にあるそうです。

 後になって彼女は、その時の感動を「ああ、こんな私でも必要としてくれる人がいるんだ。こんな私にも『ありがとう』と感謝してくれる人がいるんだ」と説明したそうです。
 それまで周囲からは迷惑がられていました。「お前なんかいないほうがましだ」と言われて、そうした周囲の目を痛いほど感じ、いつも突っ張って生きてきました。
 〈自分なんていないほうがいいかも・・?でも、いまさら親の気に入る『良い子』になんてなりたくもない・・。でも、本当にこのままで・・〉。
この際限のない悪循環を断ち切ってくれたのが、お年寄りの「ありがとう」の一言だったそうです。

 聖書は、体全体が目ではないのだから、目が足に向かって「見ることのできないお前は要らない」とは言えない。
体全体が足ではないから、足が目に向かって「歩くことのできないお前はいらない」とは言えない。聖書の譬えはすごいな、と思います。
当たり前のことを言っていますが、実際、私たちはこのようなおろかな罪を犯しがちです。自分でも〈お前は要らない〉と、そう思ってしまいがちです。
これはサタンのささやきです。こうしたメッセージは、あなたを縛り、周囲の人を縛ってしまうのです。この縛りから呪縛から解放するのがイエスさまの赦しの愛なのです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

お前がいてくれてよかった!

「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。
すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が天から聞こえた。」(ルカ3:21−22)

 神さまの子である恵みとは、あなたにとって、どのような恵みでしょうか?それは、あなたの存在そのものが神さまに喜ばれている、ということです。
 まぶしいような青ジャージ姿の、ある中学1年生が、部活を終えて夕礼拝に駆けつけてきました。まだ体力的にも小学生といくらも違わないでしょう。
なかなか3年生と一緒の部活の練習について行けない。疲れた体をおして夕礼拝にやって来る、間に合った、と安心して腰掛けた瞬間、睡魔に負け、熟睡してしまいました。
 夕礼拝が終わった後、頭をかきながら、そして恥ずかしそうに笑いながら、「眠っちゃった」と言って、家に帰っていきました。

 詩編103編13節に、「父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんでくださる」とありましたが、
父なる神さまは、その男の子の気持ち、彼の疲れ、彼の努力、そうした全てをご存知で、疲れた体を引きずるようにして出てきたことを、喜んで祝してくださっていることを思うのです。
 誤解を恐れずに言えば、たとえ眠ってしまったとしても、そこに駆けつけて来た彼に対して、「来てくれてよかった」、「お前が居てくれて嬉しい」と思われます。
神さまは、あなたの存在を喜んでくださっているのです。

 主イエスさまが洗礼を受けたときに、天が開け、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が鳴り響いた。それと全く同じ語りかけを、神さまは、今日、あなたにも掛けておられるのです。
 その温かく力強い語り掛けを背に感じながら、今日の一日健やかに歩まれますように!

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘