松本雅弘牧師の日々のみことば

月曜から金曜の毎朝、高座教会の牧師からメッセージをお届けします

月別: 2018年8月

自分自身を愛する

「隣人を自分のように愛しなさい。」(マルコ12:31)

 学生の時、忘れることの出来ない1冊の本との出会いを経験しました。
 ワルター・トロビッシュの『自分自身を愛する』という本です。
大変うつくしい、ブロンドの髪の女性が、トロビッシュという牧師のもとに来て、自分が愛せないのです、と告白するところから、その本が始まります。
 その本の中で、「本当に大切な人を大切にできない」のは、実は自分を大切にできないからである、というのがこの本のメッセージでした。

 自分を大切にできていない人、つまり、自分をそのままで受け入れることできない私たちは一生懸命、何かになったときの自分を想定して、愛そうと努力します。
現状に不満をもっているからです。一向に心が満たされません。
 ですから、その満たされない心を他の人によって満たしてもらわなければならない。他の人を愛する代わりに、他の人に愛して欲しいと求めるのです。
愛は限りなく奪うのです。それを聖書では「エロス」の愛と呼びます。

 しかし、イエスさまは、「あなたがいてくれて本当によかった」と言ってくださるのです。これがイエスさまです。これを「アガペ」の愛と言います。
 ですから、このイエスさまに出会うことが、全てのことの始まりであります。
このイエスさまに労をとっていただき、イエスさまに大事にしていただき、イエスさまに愛していただく。
私たちが愛するのは、神が先ず私たちを愛してくださったからだ、ということが、個々に起こるわけです。
 そのようにして、すべての活動、すべての生活に先立って、まずイエスさまに愛され、イエスさまに大切にされていることを実感すること。
これが、無くてはならないもの。あなたにとって一番必要なものなのではないでしょうか!

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

パウロの優しさ

「だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。」(フィリピ2:29)

 パウロはここで、大きな失敗をしたエパフロディトを優しい心をもって受け止めています。
 なぜパウロは、失敗し多くの人に迷惑をかけたエパフロディトに対してとことん優しい心で接することができたのでしょうか?
実はパウロ自身がエパフロディト同様、見事に失敗し、見事に的をはずした経験の持ち主だったからです。

 パウロはキリストを迫害しました。とことんやりました。しかし神さまは一方的に憐れんでくださり?愛してくださった。このパウロをとらえてくださったのです。
〈このようにがむしゃらで的外れの私自身が、結局キリストを十字架につけた〉ということをパウロは心の深いところで受け止めたのです。
 しかも、〈このような者にもかかわらず御子の命と引き換えにしても惜しくないと神はお考えになり、このような私をも、熱烈な愛をもって愛してくださっている〉ことをパウロは知ったのです。
パウロはキリストの愛に感動したのです。〈私が立ち直るためにと、キリストが全部の泥をかぶってくださった。それによって私は生かされた〉と知ったのです。

 イエスさまは言われました。「私はあなたがたを友と呼ぶ」。「あなたは高価で?尊い。私はあなたを愛している」と。
聖書を読む時、どの聖句もみな、もったいないほどのお言葉です。その極みがクリスマスであり、十字架です。
そこに現された眼差しをもってあなたを見つづけ、接しつづけておられる主の優しい眼差しの中にとどまりつづけることを通して、敗者復活が現実に起こり、エパフロディト同様?あなたも変えられていくのです。
 今日の主の眼差しを背中に感じ、信仰の道を健やかに歩んでいきましょう。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

証しする責任

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:19−20)

 私をキリストに導いてくださったのはアロフス宣教師でした。
 本当に素敵な方で、私たちの憧れの的でした。最初は英会話が目的でクラスに出ていたのですが、ある時、「私は死ぬことが怖くありません」とお話されたのをきっかけに、先生の信じているキリスト教に興味を持ち始めました。
 「なぜ、あんな強がり言っているのだ」と、最初は反発する思いもありましたが、「この先生を動かしているのはいったい何なのだろう?」と思い始めたのです。

 ある時、先生は大好きなピーナッツバターを買ったのです。ところが封を切ると、それは似て非なる物、お味噌だったそうです。
 先生からそうした日本での不自由な生活の話などを聞けば聞くほど、「なぜ、そこまでして・・?!」と一層強く思いました。そして、「何かあるに違いない」と思い、本格的に聖書の話に熱心に耳を傾け、求道を始めるきっかけともなりました。
 宣教師の先生方は、なぜ、そこまでして、生まれ故郷を離れて出かけていくのでしょうか?!
それは、「イエスさまを伝えるため」です。そして、よくよく考えてみるならば、誰よりもイエスさまご自身こそが、天にある父なる神さまの御側という「故郷」を離れ、人の姿になって生まれてきてくださった。
そして十字架にかかり、救いの道を開いてくださった。このようにして、私たちのもとに福音が届いたわけです。
 そのイエスさまが残した命令が今日の御言葉です。今日もこの御言葉を覚え、主の証し人として遣わされていきましょう。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

心のほお嚢

「この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。」(口語訳 ルカ1:29)

 天使を通して、神さまがマリアにご計画が伝えた時、彼女は戸惑いました。そして「彼女は思いめぐらしていた」と聖書は伝えています。
 実は、ルカ福音書には、何度か、思いめぐらすマリアのことが紹介されています。
 例えば、過越祭でエルサレムに上京した少年イエスさまが、両親の期待を裏切るような行動をとってしまったことがありました。
そのために、マリアもヨセフも大変心配しました。その時も「すべて心に納めていた」と出てきます。
 ある人は、これを「心のほお嚢(ぶくろ)」と呼んでいました。
 このときのマリアは、彼女自身の予定や願いと神さまのマリアに対するご計画のズレを経験したのです。
そのズレを経験したときに、リスが消化しきれないものをほお嚢に一時入れておくように、マリアも「心のほお嚢」に、そうした分からない、いま解決できないことを納めていました。

 では何故、マリアにとってそうしたことが可能だったかと言えば、神さまに対する深い信頼があったからです。神への信頼と「心のほお嚢」との大きさは比例します。
 じゅうたんの裏側を見るとき、複数の糸が無秩序に絡み合っているようにしか見えない現実があります。意味が分からない現実もあります。
しかし、時間がたってじゅうたんの表側から見る機会を得るときに、摂理の神の備えの意味を知る経験が必ずある。
それまで「心のほお嚢」に納めておくことがマリアの子育ての秘訣、そして恵みではないと思える出来事を、恵みにしていく秘訣だったのです。
 私たちに与えられている「心のほお嚢」を活用し、主の恵みを恵みとして受け取れるように。そして、その恵みから感謝と喜びが私たちの心に溢れ流れることが起こるように、祈り求めていきたいと思います。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

キリストの広く、長く、高く、深い愛

「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、
人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」
(エフェソ3:18−19)

 日々の生活の中で、何か辛い出来事に遭遇する時、ともすると〈こんな私だから、悪い事が起こって当然・・〉と最初から諦めてしまうことはないでしょうか?
 でも、神さまの愛は、あなたの思いを超えてはるかに豊かなものであることを聖書は教えています。
ですから、あなたの常識や経験、あるいはその時の思いや感情で、神さまの愛を制限しないようにしていただきたいと思います。
 使徒パウロはエフェソ書の中で、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、
そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」と祈っています。

 キリストの愛の「広さ」とは、ユダヤ人も異邦人も全ての人々を救いに導く広さです。
 愛の「長さ」とは1人の罪人が悔い改めるまで、扉の外に立ち招き続ける、その忍耐に現れる愛の長さです。
 愛の「高さ」とは、この世の愛とは比べ物にならない崇高さでしょう。
 そして愛の「深さ」とは、どのような罪の深みにはまり、どん底のような状態に陥った罪人のところにも届き、引き上げてくださる愛の深さです。

 あなたは、この愛の蚊帳の外にご自分がおられると思いますか?決して、そんなことはありません。キリストの広く、長く、高く、深い愛の内側に、すっぽりと包まれているのが、今のあなたなのです。
 このことを忘れないでください。

 いってらっしゃい。

 牧師、松本雅弘

神はよいお方

「夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。」
(マタイ20:8)

 神さまはどのような方ですか、と訊かれたら何をお答えになりますか?
 ぶどう園の労働者の譬え話を読むと、神さまは本当に良い方だとつくづく思います。
 なんでたった1時間しか働かない人が、1デナリオンも貰えるのでしょう。しかも、朝6時から汗水流して働いた者よりも先に同額の1デナリオンを貰う。
イエスさまは「このようになさるのが愛の神さまだ。神さまの恵みとは?本来こういうものだ」と教えておられるのです。

 もしかしたら5時に雇われた人は、年齢制限を越え、私みたいに体のあちこちの「部品」が傷み始める中年だったかもしれない。そうであれば家には家族が何人かいたでしょう。
当時、日当を貰っても食べるのがやっとで、蓄えなどないのが普通です。朝6時から並んでいて、家族6人が食べられるのか、心配でしょうがなかった。
5時になってようやく声をかけてもらい、一瞬ホッしたかもしれません。でも1時間しか働けませんでした。
 5時に雇われた人は計算したでしょう。当時は12時間労働でしたから〈12分の1の賃金しかもらえないかもしれない・・。12分の1の賃金で家族6人をどうやって養おう・・〉。
 そのようにハラハラドキドキしながら朝から過ごしていた人を、最初に安心させ、喜ばせてあげたい、と考えたのがぶどう園の主人だったのです。
 それだからこそ、皆と同額の1デナリオンを、それも最初に支払ってあげた。これが私たちの信じる神さまです。そのお方の愛の心ですね。
 私たちにとっては常識外れ。でも愛の神さまにとって、これが当然のやり方でした。これが神の愛です。神の恵みなのです。 

 ところで、神さまはどのような方ですか?そうです。神さまはよいお方です!

 いってらっしゃい。

 牧師、松本雅弘

わたしはあなたと共にいる

「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。」(ヨシュア1:5)

 『若い牧師・教会リーダーのための14章』(ドレッシャー著)という本を読みました。原題は、『もしも私がもう一度、牧師をやり直すことができたなら』というもので、先輩牧師が自らの牧会を振り返って、是非このことは後輩に遺しておきたいという思いで書かれたものです。
 ヨシュアという人は、私たちが先輩牧師であるドレッシャーの言葉に耳を傾ける以上に、信仰の先輩であるモーセから多くのものを学び、責任をもってバトンを受け継いでいった人物であったと思います。

 聖書はヨシュアのことを「モーセの従者、ヌンの子ヨシュア」と呼びます。つまり、ヨシュアはいつもモーセの後に付いていました。「カバン持ち」のように、金魚の糞のように、モーセが行く所どこへでも付いていきました。
 アマレクとの戦いの場面にヨシュアは登場します。この時、モーセはヨシュアに自分は戦場には行かない代わりに神の杖を持って丘の上で祈ると約束しました。
 闘いの間、モーセは手を挙げて一生懸命に祈ったのですが、当然、疲れてくると祈りの手が下がります。するとイスラエルが劣勢になるのです。そこでアロンとフルがモーセの手を両側から支えました。
戦況が優勢になった時は、手が高く上げられ力強く祈られている時、劣勢になった時は祈りの力が弱っていたと、ヨシュアは後で聞かされ、祈りに応えてくださる神さまを覚えたのでした。

 モーセの会見の天幕を夜通し守ったのもヨシュアでした。モーセのそばにいつもいて、その祈りを見てきました。
困難も喜びもストレスも嘆きも、全て神の御前に注ぎ出して祈るモーセのその姿をヨシュアは目撃してきました。
 モーセが死んで、その仕事を引き継いだヨシュアに対して、「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる」との神さまの約束は、この時のヨシュアにとって深い意味をもって、迫ったことだと思います。

 そのお方は今日、あなたと共におられます!

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

交わりのDNA

「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(創世記1:27)

 聖書の神は交わりの神さまです。父、子、聖霊なる3つのご人格をお持ちで、なおかつおひとりである神が聖書の三位一体の神さまです。
永遠の昔から父、子、聖霊の深い愛の交わりの中におられました。その交わりにあずからせるために神は私たちを「神のかたち」に似せて造られたのです。

 高座教会の小グループ活動の「教科書」ともいえる『小グループで教会は変わる』の中に、この「神のかたち」の意味について、こんな説明がありました。

「神は私たち人間の中に、人格的交わりを求めるという独特なDNAを組み込んでくださった。
神は私たち人間をこの『交わりの遺伝子』を持つものとして創造され、人間として生まれたものなら、誰もが生まれつきこの遺伝子を備えるものとして造られたのである。
この『関わりを持とうとするDNA』あるいは『交わりの遺伝子』は、なぜ教会に小グループが必要かということを説明してくれる。
人々は単に霊的な必要を満たすためだけに教会に来るのではない。彼らは、人格的交わりを持ちたいという内なる欲求に促されて教会に来るのである。
・・・教会が人々を相互の人格的交わりへと責任をもって導くことができるなら、似せられた神のご性質をはっきり現していることになる。
人間は神のかたちに似せて造られたからこそ、交わりを求めるのである。このことこそ、神のかたちに似せて造られたことが意味することなのである。」

 ある方は、「独りでできないことが2つある。それは結婚とクリスチャンであることだ」と語っていたことを思い出します。
 人は「交わりのDNA」を与えられているからこそ、主にある交わりの中で、初めて神さまが創られた人間らしく生きることが出来るのですね。
 あなたも小グループに参加してみませんか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

福音の種まき

「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、『主よ、救われる者は少ないのでしょうか』と言う人がいた。」(ルカ13:22−23)

 日本中会は教職者不足に直面しています。しかし、これはカンバーランドだけの問題ではなく、どの教団、どの教会でも、深刻な問題を抱えています。
そして、これは現在の教会が維持運営されていかないのでは、ということを超えて、私たちクリスチャン/教会に与えられている「福音宣教」という課題にとっても大きなマイナスになっています。
 日本におけるクリスチャンの総人口は、カトリックやプロテスタント、その他を全部含めて1%に満たない状況です。
今日の聖句にもあるように、私たちも「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と問いたくなる状況があります。
 JCGIネットワークはアジアンアクセスジャパンと名前を変えていますが、日本教会成長研修所(JCGIネットワーク)の前理事長の話に耳を疑ったことがありました。
「JCGIネットワークで研修した教会での、ある年の洗礼者数は日本全体の洗礼者数の80%を占めた」ということでした。

 また、最近、駐在や留学のため北米で暮らす日本人で洗礼を受ける人の数の方が、日本の教会で導かれて洗礼を受ける人の数を上回っている、という話も聞きました。
 ポイントは何かと言えば、「いかに救われる人、洗礼に導かれる人が少ないか」ということです。
 こうした現実に直面する時に、まさに今日の聖句にあるような問いかけを、私たちもイエスさまにしたくなりますね。
 でも、これに対する主の答えは「狭い戸口から入るように努めなさい」というものでした。つまりそうした中で私たちがすべきことがあるということです。扉はまだ閉じていないのですから。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

神さまにだっこされている

「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。
あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。」(ルカ12:29−30)

「ぞうさん」や「やぎさんゆうびん」の作詞者として知られている詩人のまどみちおさんが100歳になられた時、新聞にまどさんの「あかちゃん」というタイトルの、こんな詩(抜粋ですが・・)が紹介されていました。

どうも まぶしい・・・/と おもって ハットきがついた/
だっこされてるんだ かみさまに!/あかちゃんは どんなあかちゃんでも/
なんのあかちゃんでも/ママにだっこされてても そのまま/かみさまにだっこされてるんだ

 たしかに私たちには、「その日一日の苦労」があります。ある方にとって、今週すべき課題は山積みかもしれません。その日一日の務めとして汗を流すべき事柄があります。
仕事をする人は仕事をし、家事をする人は家事に精を出し、学生でしたら勉強します。
 このように、神さまが1人ひとりに与えておられる「務め」や「責任」があることでしょう。そして、同時に、今日の聖句でイエスさまは何度も繰り返して「思い悩むな」と語ってくださっています。
たぶん、それだけ、日々、私たちの能力を超えた?手の届かない事柄に囲まれていて、それゆえにほんとうに思い悩む存在が私たちであることをイエスさまはご存じなのです。

 でも、どうでしょう。しばらく目を閉じて神さまのことを思い巡らしてください。今、あなたの心の中にある思い悩みの原因すらも、神さまの御手のご支配のうちにあるのです。
 どうか、神さまがあなたの心の目を開いてくださり、この神さまの御支配にあなた自身がどれだけ守られているかをはっきりと受けとめてくださいね。
 あなたは神さまにだっこされているのですから!

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘