松本雅弘牧師の日々のみことば

月曜から金曜の毎朝、高座教会の牧師からメッセージをお届けします

月別: 2018年9月

聖書の約束を基準として

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」(2テモテ3:16−17)

 出エジプトから1年ほど経過した時、主なる神さまはモーセに約束の地を偵察するようにと指示を与えました。
ところで、神さまは偵察隊を派遣する前に、カナンの土地は、すでに神さまがイスラエルの人々に与えようとされている土地であるというご計画を明らかにしておられます。
 ところが偵察隊の12人の内の10名は約束の御言葉を具体的に適用せず、その御言葉の約束を自分たちの常識や経験、その時の気分で制限してしまいました。
その結果、彼らから報告を受けたイスラエルの民たちは大きく混乱しました。

 ではなぜそんなことが起こったのでしょう。
 第1に彼らは、過去を忘れていました。出エジプトをする前のイスラエルの民は本当に悲惨な状況に置かれていました。
そうした「昔のこと」、また主なる神さまが何をして下さったかを完全に忘れてしまっていました。
ですからもう平気で「さあ、1人の頭を立てて、エジプトへ帰ろう」と言えたのです。

 第2に彼らは、現状に満足していたのだと思います。これから先の大変さと今の大変さを秤にかけて、現状に満足したからであります。

 第3に彼らは、将来に対して不安を抱いていました。

 このような中、他のメンバーはカナンの地に行った時に生じる問題点を指摘し続けましたが、ヨシュアとカレブだけは御言葉の可能性に目を留め、その約束の御言葉に基づいて現実を見ていきました。
 生活の中で、しばしばこのような選択を迫られることがあります。そのような時、あなたは何を基準に決断していきますか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

私の神、主

「今や、わたしの神、主は・・」(列王記上5:18)

 高座教会は「四世代が喜び集う教会」を祈り求めています。私は一代目クリスチャンですが、子どもたちは二代目クリスチャンです。
皆様の中には、三代目、四代目クリスチャンの方も結構おられるでしょう。
そうした場合、信仰が受身的、ただ単なる習慣になってしまう恐れがあります。

 ある時、イエスさまも、12弟子を前に「人々は私のことを誰だと言っているか」と尋ねました。
私たちは、父母、あるいは祖父母の世代から受けた恵みを、もう一度、自分のこととして受け止めることが必要です。
 ソロモンは、父親ダビデの信仰を、自分のこととして受け止めていたということです。そのことを物語る言葉があります。それは「わたしの神、主」という表現です。
 いかがでしょう。普通でしたら「わたしたちの神、主」と言ってもよかったでしょう。何故、「わたしたちの」とは言わずに「わたしの」と言ったのでしょうか。
主なる神さまは、確かに父親ダビデの信じた神であることは間違いないのですが、同時に、今の自分を支え、生かし、救い、守り、導いてくださるお方として、ソロモンは主なる神さまとの出会いを経験したからです。
 「わたしの神、主」という表現の仕方は、まさに「神の孫」から「神の子」に脱皮し、ぶどうの枝である父親ダビデにつながり、恵みのおこぼれをいただく歩みから、
ぶどうの木である神に直接繋がり、直接、聖霊の栄養をいただいている、その恵みに感謝するように、「わたしの神、主」と告白しているわけなのです。
「わたしの」「わたしの」と言って、神さまを独り占めしているわけはありません。むしろ主体的に主への信仰を表明して生きている姿がそこにあるのです。

 9月も終わろうとしていますが、「わたしの神、主よ」と、神さまに向かって日々成長していきたいものです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

あなたは何を求めますか

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7:7)

 主なる神さまがソロモンを王様としてお立てくださったことは、神さまの一方的な恵みの出来事でした。
ソロモンは、今までの導きを振り返り、主なる神さまへの感謝に心が満たされ、一千頭の焼き尽くす献げ物をしたのだということを列王記は伝えています。
これは、主なる神さまの前に全てを焼き尽くして煙にするわけですが、正に全ったき献身を表す捧げ方です。
そして、その日の夜、今度、主なる神さまの方がソロモンの献身に応えるようにして、彼の夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われたと言うのです。

 ところで、もし神さまが「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われたとしたら何を求めるでしょうか。
「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と尋ねられ、そして私たちがあれこれと考える時、そこに明らかに私たちが何を大事にしているか。
何を求めて生きているか、が露わにされてくることでしょう。
 こうした中、ソロモンは、「聞き分ける心をお与えください」と願いました。今、王様としての歩みをスタートする上で、イスラエルの民は「私の民」ではなく、あくまでも「あなたの民」でありました。
そのあなたの民を正しく裁き、善と悪を判断するために、「聞き分ける心をお与えください」とソロモンは願ったわけです。
ここで「善と悪を判断する」力とは、神さまから来る、恵みとしての識別力です。分りやすい言い方を使えば、「主の御心を悟らせていただく」ことです。
この求めを主は喜ばれました。別の訳の聖書では、「この願い事は主の御心にかなった」と訳されていましたが、喜ばれた理由は、それが主の御心にかなっていたからです。

 あなたは神さまに何を求めますか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

信仰を働かせる

「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。
そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。」(ヨシュア1:7)

 聖書を通して教えられることは、神さまの視点で物事を見るところから信仰は具体化する、という真理です。
 第1は、神さまの目で見るところから信仰は具体化する、ということです。そのためには、どうしても、神さまが私を、世界を、隣人をどう見るかを、聖書をとおして知る必要があります。
ですから聖書を読み続けることが大切となります。

 そして、第2に、本当の意味で御言葉の力をいただくためには、御言葉を知るだけではなく、御言葉ご自身である主イエスさまと親しく交わることが大事です。
御言葉と祈りをとおして、神さまをあがめ、礼拝します。それが不信仰に対する唯一の対抗手段だからです。

 祝福よりも、災いが多いという人生観(物語)をもっていたら、なかなか信仰の冒険にでることはできません。もし、私たちが信じている神が失敗を責め立てるお方であるとするならば、一歩を踏み出すことはできません。
でも、聖書を通してご自身を示されるお方は、むしろ失敗を益とするお方。あらゆることを益としてくださるお方です。私たちの罪や弱さを完全にプラスに変えてくださるお方です。
 駄目な理由を数えている時、私の心の奥には「一歩踏み出したくない」という思い、「失敗したくない」という不安があります。でも神さまは、「私の示す地に行きなさい。スタートしなさい」と言われます。
神さまは失敗を咎めません。何故ならそうした失敗の先に成功があることを神さまはご存じだからです。

 神さまの御心は裁きではなく、救いです。滅びではなく、永遠の命です。災いではなく、祝福です。それが聖書の原則です。それを信じて、今日も神さまによって派遣されていきましょう。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

順境と逆境

「順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ 人が未来について無知であるようにと 神はこの両者を併せ造られた、と。」(コヘレト7:14)

 神さまに降参したモーセは、召しに応えて、一歩前へと歩みだしました。ところが、そこに壁のように立ちはだかるもの、すなわち、《頑ななファラオの存在》があったのです。
 出エジプトの出来事の直前まで、聖書には「ファラオの心は頑なになり、モーセとアロンの言うことを聞かなかった。主が仰せられたとおりである」という表現が繰りかえし出てきます。
 これを私たちに当てはめるならば、こういうことでしょう。〈クリスチャンになったのに、何でいつまでも問題を抱えているのだろうか〉、〈スムーズな人生を送ることができないのだろうか〉。
あるいは、〈神さまから御心を示され、自分も神さまに従う決心をして新しい歩みをはじめたのだから、ドンドン前進してもいいはずなのに、どうして妨げや困難ばかり起こるのだろうか〉。
こういった疑問が心のなかに浮かぶのではないでしょうか。

 ところが、聖書は「逆境があるから順境がある」、「困難があるから祝福がある」と断言しているようです。 

 「順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ 人が未来について無知であるようにと 神はこの両者を併せ造られた、と。」

 ファラオは自分で心を頑なにしたのですが、聖書は、神さまがファラオの心を頑なにされた、と書いています。それは、神さまの深い御心でした。
そして、その深い御心は同時に、深い愛と恵みの御心であることを私たちは御言葉によって、そして日々の信仰生活において経験していくのです。

 今のあなたにとって、今日の聖句は何を語っていますか。主の御前にこのことを思い巡らしてみてください。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

礼拝の民

「捕らえ移された先から上って来たこの州の人々は、次のとおりである。彼らは、バビロンの王ネブカドネツァルによって連行されたが、それぞれエルサレムとユダにある自分の町に帰ったものである。」
(ネヘミヤ7:6)

 イスラエルの民がバビロン捕囚を経験した後、ペルシャのキュロス王の解放令が出されました。聖書はその背後に、神さまの恵みの御手があったことを伝えています。
このような主の恵みの中で、自由を得た民たちに託された責任が、神殿再建、神殿のあるエルサレムの城壁の再建でした。しかし、それは、ただ単に建物や壁を修復する以上の理由がありました。

 ともすると私たちは、最終的な目的を忘れて、一歩手前のところの手段を目的化することがよくあります。
神殿は神さまを礼拝する場であり、城壁は安心して礼拝を捧げる事ができるために用いられていくものです。
つまるところ、神殿再建や城壁再建とは、いままで遠く離れて異郷の地にちりぢりばらばらに生活していた神の民が、ふたたび一つとされて、神を礼拝する。
イスラエルの民の本来の存在理由である、神を礼拝する礼拝共同体の再建こそが、その目指す所であったことを覚えておきたいと思います。

 ですから、捕囚後に書かれた旧約聖書を見ますと、長々と系図や名前が出てきます。歴代誌もそうですし、今日の箇所であるネヘミヤ記7章に出てくる名簿はエズラ記2章に出てくるものとほぼ一致しています。
つまり、礼拝共同体の再建には、誰が、神の民なのか。誰が中心となる礼拝者なのか、という問題が必ず付きまとうわけです。
 とすると、何が言えるでしょうか。そうです。礼拝共同体の再建ということは、一人ひとりが礼拝者、すなわち、神の民としての自覚抜きには起こり得ないことである、ということでしょう。

 私たちは神さまを礼拝する者として生かされていることを、今日も覚えて一日を過ごしていきたいですね。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

何もかも神さまにお任せして生きる

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(1ペトロ5:7 新改訳)

 私はクルマを運転する時に必ず祈ります。
運転が下手なことを知っていますし、牧師が事故を起こしたら色々な意味で大変なことですので、事故を起こすことがないように、また事故に巻き込まれないようにと祈ります。
ただ祈りつつも、心のどこかで絶対大丈夫という思いがあります。それは、神さまは最善をなしてくださるという確信があるからです。

 神さまというお方は、私たちの不幸を望まれるでしょうか!私たちの成長のために多少困難に遭うことを許されることはあるでしょう。
でも決して滅びゆくことなど望んでおられない。だから私たちは神さまを信頼して歩むことができるわけですね。

 時に苦しむことがあります。ある方がこんなことを語っていました。
色々な人を見て思うのだが、人は苦しい出来事そのもので苦しんでいるよりも、その出来事に対する自分の思いに振り回されていることの方が多いのではないか、と。
つまり思い通りにならないことが苦しいのだと。私も共感をもってその方のお話を聴かせていただきました。

 苦しみから脱する一番の方法、それは委ねることだ、と主の弟子として生きたペトロは、実際にイエスさまと生活を共にする中で悟ったのです。
 私たちは、誰かが心配してくれていると分かると励まされますよね。誰も心配してくれていないのではありません。神さまがあなたのことを心配してくださっている。
私たちがいくら心配したとしても何にも変わりませんが、全知全能の神さまが、深く心にかけ心配してくださったのなら、必要な時に必ず事を動かしてくださるのですから、本当に安心で心強いのではないでしょうか。

 今日も、祈りを通して、この神さまの御心に触れ、御心に委ねて歩んで行きましょう。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

神さまの瞳に映るあなた

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」
(ルカ10:27)

 聖書は、「隣人を自分のように愛しなさい」と教えます。英語の聖書を読むと“Love your neighbor as yourself”となっていました。
つまり、人を愛するためには、まず自分を愛することが大切である、ということです。自分に満足していることが人を愛する上での条件となる、ということでしょう。
見方を変えるならば、私たちが本当に神さまから愛されていることを知るときに、自分自身を愛する者へと変えられる、ということです。

 私たちの情緒的な問題は、しばしばセルフ・イメージの低さに起因していると言われます。自分自身に満足できないのです。〈こんな私ではいけない〉と思ってしまうのです。
その結果、物凄く頑張って自己アピールする生き方になったり、あるいは〈どうせ、私はこうだ〉と人生を簡単に諦めるような生き方も出てきます。
 夫婦や家族という人間関係の中で、受け入れられる経験を通して、ある程度、自分を回復することも可能でしょう。
でも、人間はもともと神さまに創られたものですから、神さまの愛に出会うまでは、本当の意味での自己実現の足がかりを得ることにはならない、と聖書は説くのです。

 つまり、神さまは、あなたをありのままに愛してくださる。その愛に触れた時に、〈私は私であってよい〉という深い平安をいただきます。これがクリスチャンの祝福です。

 私たちにとって本当に大切なこと、それは神さまの無条件の愛を体験することです。その愛の中で初めて、私は自分自身を取り戻し始めるからです。
 神さまの瞳に、あなたがどのような存在として映っているか、今日、ぜひ時間を取って思い巡らせてみてくださいね。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

あなたは誰ですか?

「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」
(創世記3:8−9)

 私たち人間にとって、「あなたは誰か」という問いかけはとても重要なものです。神さまは聖書を読む私たちに、時々、その問いかけをなさいます。
 あなたはどこから来て、どこに行くのでしょうか?

 私は牧師をしていますので、時として教会の方々の最期の場面に立ち会うことがあります。
また、共に信仰生活をして来られた方々や、また自分自身の頭に白いものが増えるのを目の当たりにして、どうしても「行き先」、「終わり」というものを考えざるを得ない経験をします。
 勿論、普段は忙しさの中で忙殺されていますが、独り静かに祈ったり、聖書を読んだりしますと、「あなたは誰ですか」と神さまから問われているように思うのです。
 そして、「あなたは誰ですか」という問いに対して、「私はあなたの子です。あなたのものです」と答えるところまで来た時に、本当の平安を頂く事ができる経験をいたします。
それは「私は誰」という、人間だけに備わっている「所属」を確認したいという欲求が心の中に奥深く埋め込まれているからだと思います。私たちは「心のふるさと」を求めているのです。
 私たちには神さまの肖像が刻み込まれています。それは言い換えれば、認めようが認めまいが、神さまが心のふるさとである、ということです。
 普段は、生活の忙しさの中で、そんなことを考えていません。
しかし、あのアダムとエバを愛された神さまが「あなたはどこにいるのか」と問いかけたように、「あなたはどこにいるのか。私のもとに帰って来なさい」といつも招いておられるのです。

 あなたは誰ですか? そして今、どこにいますか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

御旨のままにお守りくださる神さま

「あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い/とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ/あなたによって喜び誇ります。
主よ、あなたは従う人を祝福し/御旨のままに、盾となってお守りくださいます。」(詩編5:12−13)

 御名を愛する者を守ると約束された神さまは、その約束を、聖書を通して私たちに知らせてくださいます。
また、神の御子イエス・キリストのご人格とその働きを通して、はっきりご自身を示してくださるのです。
 私たちのために、最善をなしてくださる神さまを、私たちは、礼拝と日々の御言葉、祈りを通して知ることができるのです。

 私たちが親であれば、日々、子どもたちのことを心配するように、天の父なる神さまは、神さまに頼り、御言葉を避けどころとする私たちのことをいつも心配してくださるのです。
 全知全能の神さまがその御目をもって私たちをご覧になって、一番よいものを私たちに与えたい、と願っておられるというのです。神さまは常に私たちのベストを願っておられます。
 私たちのことをいつも心配してくれる確かな人がいたならば、私たちはそれだけでどれほど心強いことでしょう。

 「御旨のままに、盾となってお守りくださいます。」と、ダビデが歌っているように、敵であるサタンが放つ矢から、私たちを具体的にお守りくださるというのです。
神さまは、親身になって心配してくださるだけでなく、私を助ける強い意志と力を持って、具体的に救い出してくださるのです。
 神さまはそういう方です。ダビデはこの詩編の中で、「喜び祝い」、「喜び歌い」、「喜び誇ります」と、その喜びを繰り返し歌っています。
 私たちの信仰生活も、そのお方を知って、信頼しつづけることからすべてが始まるのです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘