「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」(2テモテ3:16−17)
出エジプトから1年ほど経過した時、主なる神さまはモーセに約束の地を偵察するようにと指示を与えました。
ところで、神さまは偵察隊を派遣する前に、カナンの土地は、すでに神さまがイスラエルの人々に与えようとされている土地であるというご計画を明らかにしておられます。
ところが偵察隊の12人の内の10名は約束の御言葉を具体的に適用せず、その御言葉の約束を自分たちの常識や経験、その時の気分で制限してしまいました。
その結果、彼らから報告を受けたイスラエルの民たちは大きく混乱しました。
ではなぜそんなことが起こったのでしょう。
第1に彼らは、過去を忘れていました。出エジプトをする前のイスラエルの民は本当に悲惨な状況に置かれていました。
そうした「昔のこと」、また主なる神さまが何をして下さったかを完全に忘れてしまっていました。
ですからもう平気で「さあ、1人の頭を立てて、エジプトへ帰ろう」と言えたのです。
第2に彼らは、現状に満足していたのだと思います。これから先の大変さと今の大変さを秤にかけて、現状に満足したからであります。
第3に彼らは、将来に対して不安を抱いていました。
このような中、他のメンバーはカナンの地に行った時に生じる問題点を指摘し続けましたが、ヨシュアとカレブだけは御言葉の可能性に目を留め、その約束の御言葉に基づいて現実を見ていきました。
生活の中で、しばしばこのような選択を迫られることがあります。そのような時、あなたは何を基準に決断していきますか?
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘