松本雅弘牧師の日々のみことば

月曜から金曜の毎朝、高座教会の牧師からメッセージをお届けします

月別: 2018年10月

情報過多の時代

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。」 (ルカ8:5)

 「種を蒔く人のたとえ」の箇所です。この箇所で考えさせられるポイントのひとつは、「種の小ささ」ということです。もちろん、中にはヒマワリのような比較的大きな種もあるでしょうが、種は他のものと比べたら小さなものだと言えます。
種は小さく、あまり目立たない。ですから、時として、後回しにされてしまうようなものです。
以前、ある本を読んでいましたら、クリスチャンの幼稚園の園長が、戦時中から今に至るまでの教育の在り方をおさらいしながら、こんなことを書いておられました。
「今の時代は、戦時中のように、『他人を殺して戦え!』と言うかわりに、『命を大切にしよう!』と大きな声で言える。また、子どものために必要な食物と環境を用意してあげることにさほどの苦労もない時代なので、『健康に生きよう!』と言ってあげられる。
また価値観が多様化し、個性尊重の時代の中で、『自分らしく生きよう!』と、しっかり伝えることも出来る。今でも世界のあちらこちらには、そんな風に言ってやりたくても、そうすることの出来ないお母さんたちも大勢いる中で、今の日本は何と自由で恵まれているだろうか。」
そして、園長先生の話は続きます。「こうした豊かな時代である反面、子育てに極度の疲れを覚え、苦闘しているお母さんたちが多い。こうした困難さの背景には《情報過多》があり、そして《より処の喪失》、という2つの理由を専門家は上げているのだ」、という話でした。
《何を信じてよいか分からない》。その結果、子育てに疲れを覚え、子育ての不安の中に置かれるというのです。
よく考えてみますと、これは子育てに限ったことではありません。今は様々な面で情報が溢れている時代です。そして、私たちクリスチャンにとっても、そうした周囲の情報の中で、いつの間にか、《聖書の言葉の価値》が小さく思える時があります。
まさに、小さな種粒に過ぎないのです。そうした小さなものに、価値があるなどと思えない、何か時代遅れで、大した価値などない、とサタンは私たちにささやくのです。様々な出来事が起こり、私たちの内側にある欲求をくすぐるような誘惑の声に満ちているのです。
主の語りかけは聞き逃してしまうほど、蒔かれる種は小さいのです。いや、語りかけの声に比較して、周囲の声、私たちへの誘惑の声は大きい、ということでしょう。ですから、こうした小さな種を私たちの側でどのように受け入れていくか、という姿勢が問われてくるのです。
今日も神様の語りかけは聞こえていますか。

 いってらっしゃい

 牧師 松本雅弘

天国への引っ越し

「ヨセフは兄弟たちに言った。『わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。』
それから、ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。『神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。』」
(創世記50:24,25)

 ヨセフは天国への引越しの時を迎えています。この時、信仰者ヨセフがしたことは、愛する家族に宝物を残そうと努力したことでした。ヨセフが残そうとした宝物、その宝とは何でしょうか。そうです。それは「信仰」でした。
 この短い遺言の中に、2度、同じ表現が使われています。「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。」そして、「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。」です。ヨセフは、そのようにして神様への確信を子どもたちに伝えたかったのです。
 キリスト教に「メメントモリ」、「死を覚えよ」という意味のラテン語の言葉があります。中世の修道院では、この言葉を挨拶代わりに用いていたということです。
朝起きると、「メメントモリ、あなたは死を覚えていますか」と問われます。お昼に会っても「メメントモリ、自分が死すべき存在であることを忘れないでくださいね」。そして、夜、寝る時にも「メメントモリ、いつか必ず死にますよ」と挨拶を交わしたそうです。
少しおかしな、場合によっては気味の悪い挨拶にも思えます。しかし、実際にそのように挨拶を交わしたのです。

 最近も、教会で活躍していた方々が亡くなりました。悲しみを覚えると共に、私たちは、いつか天の御国に引越しをする者です。
そこから逆算して、今を生きるように、という問いかけが与えられています。私たちはすべて、やがては天国に行くのだから、そのような者として今を生きるように、と投げかけられていることを覚えていきましょう。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

ほめるための秘策

「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。」 (フィリピ4:18)

 あるキリスト教幼稚園の園長が講演をしてくださったのですが、講演の中で、急に小さな声で、「皆さん、子どもをほめることができるようになる、取って置きの秘策を伝授しましょうか」と言ったのです。
「内緒ですが・・。ご主人に、『トキドキデイイカラ、ワタシノコトヲホメテネ!』と頼みなさい。『綺麗だ』とか『可愛い』が無理なら、『漬物がうまい』とか、『いざとなると片づけが早い』とか、何でもいいから・・。 
結局、人は、ほめてもらうと、ほめることができる。人からほめてもらえないと、その人はほめることができないのです。」と結んでいました。
 私も、本当にそうだろうな、と思いました。私たちはなかなかほめることができません。クリスチャン・スチュワードシップも、まず、「味わう」、「恵みを受ける」、「恵みを数える」、あるいは園長の言葉を借りるならば、「神様にほめていただく」ところから始まります。
そして、その恵みに対する感謝の応答として、私たちは献身のしるしとして、献金すること、時間を捧げること、賜物を用いて奉仕し、祈ったりするわけなのです。そして、それが祝福への道であると、フィリピの信徒への手紙の中でパウロは説いています。

 今日もまず神様にほめていただくことから始めてみましょう。

 いってらっしゃい

 牧師 松本雅弘

影との戦い

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」 (マタイ7:3)

 スタジオ・ジブリによって映画化されましたが、ファンタジーの傑作『ゲド戦記−影との戦い』をお読みになったことがありますか。実は、私はこの作品を牧師になってから読みました。
この本は子ども向けに書かれたものですが、非常に深いことが書かれていました。私たちの心の成長、精神的自立を扱った内容のように思えたのです。
 よく精神的な自立というようなことを考える時、問題になるのが、「自立して私たちは何になりたいか、誰でありたいか」ということでしょう。
私たちは様々な障害を乗り越えて、自分自身を実現したいという願いを持っている、と心理学者たちは言います。そしてそのような「実現への望み」が強ければ強いほど大きな不安を感じます。
その願いが、かなわないのではないかと心配するからです。そして、そうした思いを持ちながら周囲を見回しますと、自分と同じ願いを持っている人々を発見する。
つまり、いつの間にか、他人との競争の中に立たされている自分を発見するのです。
〈いい学校に入りたい〉。〈多くの収入を手に入れたい〉。〈いい暮らしをしたい〉。そしてそうした「願い」の頭に、必ずと言ってよいほど、「人と比べて」という条件が付きます。
その結果、共に協力しながら生きていくべき周囲の人々を、「競争相手」、もっと言えば「敵」としてしか見ることが出来ないのです。
相手に対する憎しみという「暗い影」が私たちの心の中に芽生えてきます。こうしたことは誰しも経験していることだと思います。
「影」も本来、自分自身の一部なのですが、自分としては受け入れがたく、私が抱え持つ弱さとか欠点のようなものです。あるいは「こだわり」です。
こうした「影」とどのように折り合いをつけるのかは、私たちが人として成長していく上で非常に深い意味がありますが、このことをテーマにしたのが、『ゲド戦記−影との戦い』でした。
今日の聖書の箇所を読んだ時に、イエス様はまさにこの「影との戦い」のテーマを扱っておられると思いました。

 いってらっしゃい

 牧師 松本雅弘

また会う日まで

「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。』」 (ヨハネ11:25)

 以前、「シー・ユー・アゲン−また会う日まで」というトラクトを手にしました。ホスピスで働く下稲葉康之というクリスチャンドクターがお書きになったものです。
その冊子には、40歳という若さで天に召されていく女性が、下稲葉先生と最後に、「また会う日まで」と挨拶を交わして逝った、そのやり取りの様子が記されていました。入院当日、彼女はすでに余命1ヶ月と推定される厳しい状態でした。
医療の限界を痛切に覚えながらも、どうにかして悔いのない人生を全うされる、その一助になればと祈りつつ、下稲葉先生は彼女と関わって行きました。そして、最後にこんな会話を交わしたそうです。
 「Tさんは死んでも天国に迎えられる。僕も仕事が終わったら召してもらうことになる。だから、信じる者同志に永遠の別れはないのです。『さようなら』はドイツ語で『アウフ・ヴィィーダー・ゼーヘン』。
これは、『再会を期して』という素晴らしい言葉なんですよ。」下稲葉先生のその言葉に対して彼女は、「それは英語の『シー・ユー・アゲン』ですね。」と応えました。
 イエスさまは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われました。イエス?キリストを信じる者は、神さまの支えの御手を常に確信しながら「死」という巨大な壁を乗り越えて?天の御国へと導かれていくことを確信することが許されていると、はっきりと教えています。
ある人は、信仰の立場から?死のことを「神が、疲れた兵卒を地上からみもとに召集なさることだ」と言っていました。別の人は、病気にかかって死んで行く状況をさして、「神の親切を反映したものだ」とも言っています。
 この地上の生涯を終えて天に召されていく時、私たちは、先に天に召された方々と、キリストにあって再会の望みがあることを確認しつつ歩んでいるのです。
 いつの日か、上から召集される私たちにとって、その死の時が「神さまの親切の反映」であることを深いところで受け止めるため、毎週の礼拝こそが「大切な備えの時」であり、神さまの用意してくださった「恵みの時」であるのです。

 いってらっしゃい

 牧師 松本雅弘

土の器

「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」 (2コリント4:7)

 人間は「土の器」であります。人が「土の器」であるということには、深い意味があると思います。
土ですから風が吹けば宙に舞い上がりますし、何もない時には、実は目に見えない地球の引力にひきつけられて、じっとしている状態であります。
風や地球の様々な力に本当に簡単に影響を受けてしまうような弱い存在です。

 「進行性筋ジストロフィー」という難病にかかった石川さんという青年が14歳の時、こんな詩を書いています。
「人間の心なんて/積み木みたいなものなんだね/ちょっとさわれば/すぐ崩れてしまう」
ちょっとした周りの人の言葉、あるいはちょっとした出来事に遭遇して、私たちの心はすぐに萎えてしまうことがあります。そして体と心はいつも1つですから、心が弱くなると途端に体の力もなくなってきます。
本当に不思議ですが・・。石川さんは、周りの人を観察しながら、いわゆる「健康」と言われる人をも含めて、自分たちは何と積み木のように壊れ易いものなのだろうと言ったのです。
聖書が、私たち人は、塵の塊としての「土の器」として造られているということを、私たちが日々の生活で実感することであります。

 この石川さんの詩は、これで終わっていません。その続きがあります。「だから神様の根を 心の中にたくさん/張らしておかなくてはならない」と続けるのです。
「人間の心なんて/積み木みたいなものなんだね/ちょっとさわれば/すぐ崩れてしまう/だから神様の根を 心の中にたくさん/張らしておかなくてはならない」
石川さんは、私たちの心がいかに「もろく」?積み木みたいに壊れやすいものであるかを実感していました。
だから彼は、その土の器に抱え持つ「キリストの復活の命」を見いだすために、イエス?キリストの神様に心を向けるように、彼は心を高く上げ、上にあるものを求めたのであります。

今日一日、わたしたちも神様に心を向けて歩んでいきましょう。

 いってらっしゃい

 牧師 松本雅弘

騒動の原因なる教会

「そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。」 (使徒言行録19:23)

 使徒パウロの語る御言葉によって、聖霊が働き、エフェソにある教会が教会らしく成長し、一人ひとりが変えられていった時、それがエフェソの住民に対して真の神様を指し示す証しとなっていきました。
しかし、パウロがキリストに忠実になるにしたがって、エフェソの人々は、ある種の不安感と危機感を心のなかに募らせていきました。こうしたなかで起こったのが今日の個所に記録されている《騒動》でした。
銀細工職人のリーダー格のデメトリオという金持ちの男が、「手で造ったものなど神ではない」と主張しながら伝道しているパウロの存在がいかに自分たちにとって不利益かを、アルテミス像を作って生計を立てていた職人たちを集めて訴えたわけであります。
その訴えがきっかけとなってエフェソの町全体を巻き込む大騒動に発展していったのです。
注目したいことは、《騒動の直接の原因が教会にあった》ということです。
それは《神様の願っている教会の姿と私たちが望む教会の姿のズレ》であります。
分かりやすく言うならば、コミュニティー教会として仕えていくことは、ときにその地域社会の人々にとって好ましからぬ状況が起こりうるということです。
そして、それは、私たち教会の側からしても、どうでしょうか。私たちの伝道は、教会員である私たちがまったく変わることなく、新しい人々を神の家族としてお迎えすることは不可能です。
新しい恵みというぶどう酒のために私たち自身が新しい皮袋になるようにと神様は願うのであります。
 何故なら伝道とは、教会にとって、私たちにとっての都合の良い人、都合のよい大人しい若者や子どもたちに対してだけ働きかける業ではありません。
むしろ、私たちが、コミュニティー教会として生きるということは、地域社会が抱える問題を抱え込む可能性があります。
 イエス様が、最後の最後のところで問われることは何かと言えば、どれだけ自分とは違った人々を受け入れ、愛し、支えあうことができ、愛することのできない自分と戦ったかではないでしょうか。
最後には私たち自身の神様に対する献身が問われてくると思うのです。全アジア州の伝道のためにエフェソの教会の兄弟姉妹をその家庭、職場、学校にあって自由自在に用いられた聖霊なる神様が、私たちと共におられます。

 いってらっしゃい

 牧師 松本雅弘

身をかがめるイエス様

「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。」(ヨハネ8:6−8)

 女性が姦通の罪で捕えられた場面です。
イエス様は「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた」とあります。それまで女に集中していた視線が、イエス様の背に向けられていったのです。
人々の好奇と冷酷な視線が女から離れて、すべてイエス様に注がれました。不思議なことにイエス様はかがみ込んでおられます。その身をかがめたイエス様の姿勢が、この女性を、それまでの耐え難い、興味本位の男たちの視線から解放していったのです。
さらに、イエス様が黙っておられます。しかも、黙っておられただけではなく、その身をかがめた姿勢は、あたかも、ご自分の前に連れてこられたこの女性の背負った重荷を、ご自分が背負おうとしているかのように見えるのです。
身をかがめ、女を背負おうとしているように感じるのです。
 このところで「かがめる」と訳されている元々の言葉には、「引き受ける」という意味があるそうです。彼女の過ち、彼女の苦しみを引き受けるようにして、身をかがめておられるように見えます。
イエス様は、ご自分の身をかがめて、人を受け入れておられるのです。
やがて、身を起こしてイエス様は言われます。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。そして、また、身をおかがめになった、と聖書は伝えています。
そうした中、彼らは黙ったまま、1人また1人と立ち去ってしまうのです。そして、イエス様は身を起こし、そこに1人残った女に語りかけられました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」。
女は答えています。「主よ、だれも」。そして、イエス様は言われたのです。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない」。
 これは、敗北宣言していた彼女に、敗者復活の宣言をされたということです。
ぜひ、イエス様は身をかがめるお方だ、ということ覚えていただきたいと思います。それも、ご自分の必要からそうなさるのではありません。私たちの重荷を負うために身をかがめてくださるお方です。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

プライドが傷つけられたとき

「ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子どもの体のようになり、清くなった。」
(列王記下5:14)

 アラムの軍隊の司令官ナアマンが重い皮膚病を患いました。預言者エリシャのことをひとりの少女から聞いたナアマンは「藁をも掴む」思いをもって出発します。
彼の手にはアラム王さまの手紙が握られていました。「権力や金にものを言わせて」事を運ぼうとするナアマンの姿が見えてきます。
 司令官として尊敬を持って迎えられ、神の人エリシャが自ら出て来て、自分の頭の上で手を動かし、その結果、瞬時に皮膚病が癒される。
そういった「シナリオ」をエリシャの家にたどり着いたナアマンは、思い描いていたでしょうが、現実は違っていました。
エリシャは使いを送り「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい」というメッセージを伝えただけでした。解決の道が示されましたが、ナアマンはその示され方、また解決方法の中身に躓いたのです。
「なぜ、エリシャが出て来ないのだ。私はアラムの司令官ナアマンである。この扱いは何だ!」という具合です。そうなってきますと、このメッセージすら受け止められなくなります。
つまり自分のプライドを傷つけられてしまったわけです。
 さて、いかがでしょうか? もうすでに、自分の中に決まったことがあり、その通りに神さまに働いて欲しい。
ナアマンに神さまの御心が示されているにもかかわらず、自分のシナリオが決まっているが故に、その御心がどうしても受け止められない。主の導きを見失ってしまっている。
そうしたことが、私たちにもあるように思うのです。
 私たちが訴えることに忙しいために、神さまの細い御声を聞き逃しているかもしれません。あるいは、私の願いだけを神さまに申し上げて、神さまが私に願っていることが何かを聴く余地が、私の心の中にないのかもしれません。
神さまは最善をなしてくださるお方です。今、最善と思えないことも、聖書によれば、それが必ず最善なのです。ナアマンに求められたことはそのことでした。
 そんなナアマンにも救いがありました。それは、彼をいさめる勇気ある家来の存在でした。信仰の友、共に信仰生活を歩んでくれる主にある仲間がいることは、本当に幸いなことなのです。
最善をなして下さる神さま、そして信仰の友が共にいて下さることに感謝する一日でありますように。

 いってらっしゃい

 牧師 松本雅弘

いちじく桑

「そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。」
(ルカ19:2―4)

 ザアカイのお話しで気になったのは、いちじく桑の木の存在です。
このいちじく桑は、その実を食用に用いるというよりも、建築用材として栽培されたようです。実は虫食いになっているものも多いということです。
そのいちじく桑の木が、建築用材でもなく食用でもなく、ザアカイがイエス様に出会うために用いられたということは、何か示唆深いように思います。

 私たちがイエス様と出会うために上る「いちじく桑の木」は何だろう、と考えました。礼拝堂でしょうか? それとも書物でしょうか? 教会の友人でしょうか?
 おそらく、本来の目的から遠いようなものによって、私たちはイエス様に出会っているのだと思うのです。
 いちじく桑の木に登るザアカイですが、そこに、いちじく桑を、その日のために育て、その場所に置いてくださったのは神様です。このようなことを人は「偶然」と呼びますが、聖書は「偶然」とは言いません。
少し難しい言葉ですが、「摂理」と呼びます。ザアカイがイエス様に会うためには、どうしても、このエリコの町の道路沿いにある、いちじく桑の木が必要だったのです。

 今日も神様がわたしたちのために備えて下さっている1つひとつのことに心をとめながら過ごしていきましょう。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘