「そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。」
(ルカ19:2―4)
ザアカイのお話しで気になったのは、いちじく桑の木の存在です。
このいちじく桑は、その実を食用に用いるというよりも、建築用材として栽培されたようです。実は虫食いになっているものも多いということです。
そのいちじく桑の木が、建築用材でもなく食用でもなく、ザアカイがイエス様に出会うために用いられたということは、何か示唆深いように思います。
私たちがイエス様と出会うために上る「いちじく桑の木」は何だろう、と考えました。礼拝堂でしょうか? それとも書物でしょうか? 教会の友人でしょうか?
おそらく、本来の目的から遠いようなものによって、私たちはイエス様に出会っているのだと思うのです。
いちじく桑の木に登るザアカイですが、そこに、いちじく桑を、その日のために育て、その場所に置いてくださったのは神様です。このようなことを人は「偶然」と呼びますが、聖書は「偶然」とは言いません。
少し難しい言葉ですが、「摂理」と呼びます。ザアカイがイエス様に会うためには、どうしても、このエリコの町の道路沿いにある、いちじく桑の木が必要だったのです。
今日も神様がわたしたちのために備えて下さっている1つひとつのことに心をとめながら過ごしていきましょう。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘