松本雅弘牧師の日々のみことば

月曜から金曜の毎朝、高座教会の牧師からメッセージをお届けします

月別: 2018年11月

神さまはあなたのお父さん

「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
・・・まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ7:9−11)

 イエスさまは、「あなたがたの天の父は」と言って、私たちがどなたに向かって祈るのかを改めて教えてくださいました。
私たちが人に何かを頼む時、どうにかしてもらえると期待するからこそ頼めるのです。そうでなければ求めることも頼むこともありません。
ですから、そうすることは相手を信頼していることの証拠です。
 これは神への祈りにも当てはまることではないでしょうか。天のお父さんが必ずどうにかしてくれると信じているからこそ、その求めは真剣な祈りとなります。
つまり祈ること自体が、天のお父さんへの信頼の表明、信仰の告白にほかならないからです。
 そして、天のお父さんは、そのように一生懸命でまっすぐに願い求める、愛する我が子の姿を見て、〈どうにかしよう〉〈どうにかしなければ〉と、必ず思われるにちがいないのです。

 神さまはあなたのお父さんです。信頼し、そのお方のふところに飛び込んでみてください。そうするあなたのことを喜び、力強い御腕でしっかりと、そして優しく受けとめてくださいますから!

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

主に導かれての「就活」

「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(エフェソ2:10)

 ここ数年、大学卒業予定者の就職が厳しい状態が続いています。本当に気が重くなります。ましてや「就活」真っ最中の若者たちは気が気でない状況でしょう。
 聖書は、そうした私たちに対し「あなたは神に造られたもの、神さまの作品」だと宣言します。
そして神さまがお造りになったからには、その人独特の存在理由があり、当然、その人独自の持ち場があると説くのです。(エフェソ2:10)。
 ところで、あなたは、ジグゾーパズルをなさったことありますか? 同じような大きさ、形のピースをはめ合わせていく。
うまくいかないとイライラしますが、ピシャとはまった時は爽快です。まるで一つの出会いのようです。
主に導かれての「就活」は、どこかジグゾーパズルに似ていないでしょうか? ピシャとはまる持ち場が、神さまによって準備されている。
あなたが神の作品として輝きを放つ職場が必ずどこかにある。見つかるまで、確かに忍耐と多少の時間も必要です。でも、必ず主は、あなたにピシャとくる出会いを備えておられます。
ですから、自分の力で全部やらなければと考えず、あなたの責任で出来ること・選べることに、祈りつつ、集中して取り組まれたらどうでしょう。
また、あなた以外の人が決めたり選んだりすることについては、どうにかしようと思い煩うのを止め、神さまにお委ねすることです。

 あなたを大事にしてくださる神さまは、必ずピシャとくる出会いや職場を備えてくださっていますから。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

信仰を働かせる

「わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」
(イザヤ55:11)

 ある牧師が、信仰の原則はどこか自然科学の原則と似ている、と語った言葉を思い出します。
 科学者たちは自然界を観察し、そこから神の創造の秩序の現れとしての自然法則を発見します。そしてその法則を数式化します。仮説を立て実験を繰り返し、その法則が確かであることを証明していきます。
 私が子どもの頃、アポロ宇宙船が月に行きました。理論上、計算の上では、そのずっと前から月に宇宙船を飛ばすことに成功していたのですが、それを信じてやり続けた結果、最終的に成功したのです。
 「月に行けるはずだ!」と科学的に解明された可能性から目を離さなかった人々が、月に宇宙船を飛ばす為の土台を作りました。そして、その可能性を信じた人によって月面着陸が現実となったのです。

 自然界の中にある法則を、信仰の世界に当てはめるならば、それは御言葉の約束です。そのような御言葉の原則によって世界を見ていくと、肉眼で見ることのできなかった可能性を見ることができるように思います。
 「目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです」とあるように、眼に見える問題や課題にとらわれるのではなく、
唯一の真の神から目をそらさず、約束の御言葉に留まり続け、目に見えないものを通して、現実の世界の中で神の祝福を見ていきなさい、と聖書は勧めます。
 預言者イザヤは「わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」と語っています。

 今年、神さまはあなたに、どのような御言葉の約束をくださいましたか?
 そのお方は、必ずその御言葉を現実のものとしてくださる方です。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

主の憐れみ

「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」(ルカ7:13)

 イエスさまがナインの町に行った時、ある母親の息子が死んで、棺が家から担ぎ出され、その葬式の行列が町の外に出るところでした。
 その時のイエスさまの姿を聖書は、「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」と伝えています。
 イエスさまはこの母親の何を御覧になったのでしょうか。母親の泣きつかれて腫れた顔でしょうか?
ここで分かることは、「イエスさまとは御覧になる方だ」ということです。
 イエスさまは、傷ついた私たちを放っておくことをなさらないお方です。悲しみの現実を知り、私にかかわりを持とうとされるお方です。
そしてもう1つ、「主は憐れに思ってくださるお方である」ということが分かります。
実は、この「憐れに思う」という言葉を、当のギリシャ人は決して自分たちギリシャの神々に当てはめて使うことをしなかったと言われます。
それは、ギリシャの考えによれば、その心を動かされるような神さまは神の名に値しない。神はどっしりとしていて、人間の状況に左右されない。
偉大なる神々は人間の悲しみや喜びに振り回されるような存在ではない、というのです。でも、どうでしょう?
 仮に神さまがそのようなお方だとするならば、問題を抱えて祈ることもできないのではないでしょうか。
 幸いなことに、イエスさまは、ギリシャの神々のように、人間の状況に左右されない、というのではなくて、
あなたの苦しみ、悲しみの現実、罪の重荷に耐えかねているような状態を、憐れみを持って御覧になり、心を動かすお方なのです。
 そればかりか、その痛みを全面的に引き受けるゆえに、はらわたがかき回されるほどに、心を痛めるお方なのです。
それは外でもない、ご自分の十字架の死と痛みを引き換えの憐れみでもありました。
 このお方があなたの神なのです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

神さまに愛されているという実感

「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」
(1ヨハネ4:19)

 聖書は、「隣人を愛しなさい」と教えています。その聖書の言葉を注意して読むと「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」と書かれていることに気づきます。
「自分を大事に出来る人は、隣人をも大事に出来る人です」と聖書は教えるのです。
 ところで、あなたはご自分のことがお好きですか? 以前のわたしは自分を好きになれませんでした。人を見ると〈何であの人のようでないのだろう〉と羨ましく思うことがよくありました。
ですから、いつも自分のことばかり気にして、なかなか周囲の人を思いやることが出来ませんでした。
 でもイエスさまに出会ったのです。そして、こんなどうしようもない自己中心な者のために、イエスさまが十字架にかかって死んでくださったことを知ったのです。
神さまの愛を知ったのです。それ以来、少しずつ自分の見方に変化が起こりました。
人の見方にも変化が起こりました。そして気持ちが楽になってきたのです。
自分を大切に感じ、隣人を大事に思えるのは、神さまがあなたをそのままで愛してくださっていることを、あなたが実感したからなのです。
ですから、すべてのことは神さまの愛から始まります。この神さまの愛のうちに留まってください。

「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」

 今日の一日も、健やかに歩まれますように!

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

神さまに召されているあなた

「神は続けて言われた。『わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。」
(出エジプト記3:6)

 神さまがモーセと出会った時、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と自己紹介されました。
これは「わたしは田中太郎の神、木下花子の神、鈴木一郎の神である」と言われたのと同じことです。

 アブラハム、イサク、ヤコブを召された神さまが、今度はモーセを招かれたのです。
そして聖書を見ますと、神はモーセ以降も、ダビデやイザヤやエレミヤ、ペトロやパウロを、御業の一端を担う者として召されたのです。
その同じ神さまが、この時代、この地域にあってイエス・キリストの恵みを、地域に住む方々にお伝えする使命に生きるように、あなたやわたしを招かれたのです。
「わたしは○○○○の神である」と、御声をかけてくださる神さまの呼びかけに、ご自分の名前を入れて受けとめてみてください。

 「私たち高座教会は、この地域を〈キリストの福音〉で満たし、神の国を実現するために召されています。
〈信仰生活の5つの基本〉を土台に、〈3つのめざすもの〉を柱とし、〈4世代が喜び集う教会〉を建て上げていくことを祈り求めます。」と、私たちは「高座教会ミッションステートメント」を告白しています。
私たちを愛し、私たちを高座教会へと召してくださった神さまに応えて、神さまの願いをわたしの願いとして受けとめて生きる者でありたいと思います。

 今日の一日、キリストの恵みと平和がありますように!

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

あなたのために立てられたご計画

「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレミヤ29:11)

 まもなく12月に入ろうとしています。寒さが徐々に強まってきて、受験をひかえた子どもや若者はカゼをひかないように守られますようにと祈ります。
誰もが「よい学校に行きたい」と願います。でも「よい学校」とは何でしょうか?
聖書の教える「よい学校」とは必ずしも「偏差値のよい学校」のことではありません。「よい学校」とは「神さまが用意された、あなたに最もふさわしい学校」のことです。
神さまは、あなたのために、子どもたちや孫たち、あなたの家族のために「よい計画」を持っておられます。
「よい計画」とはその人にとっての「最もふさわしい計画」です。

 建設途中のビルを見ても、それが何階建てのビルになるのか、どんな形のビルになるのかなど分からないことがあります。
でもビルの階数や形や目的は、最初から設計者の心の中にはっきりとあるものです。そして設計者が素晴らしければ完成するビルも見事なものになるはずです。
 神さまは、私たち一人ひとりに素晴らしい計画を立てておられます。「あなたのために」用意された計画なので、「あなたに最もふさわしい計画」です。
そして、それは「将来と希望をもたらす計画」でもあるのです。あなたは御言葉と祈りを通してその計画を知ることが許されています。

 神のご計画があなたの人生において実現しますようにと祈ります。

 いってらっしゃい

 牧師 松本雅弘

何に違和感を覚えますか?

「わたしは言った。『災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。』」
(イザヤ6:5)

 紀元前750年頃、南ユダの王ウジヤが死んだ年、預言者イザヤは神を礼拝するために神殿に行きました。
「わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。」とあるように、その時、主の幻を見たのです。
 聖書を読むと、主なる神さまと出会った人の多くが、自分の罪や汚れに気づかされる経験をすることが分かります。預言者イザヤもそのひとりでした。

 あなたは礼拝や御言葉と祈りの時を通して、神さまから罪や汚れを示されたことがありますか? また、そのような時、あなたは、神さまにどのように応答したでしょうか?
 生ける神さまとの出会いを経験した者は、以前と同じままの自分であり続けることは不可能である、とある人は語っていました。
 主なる神さまとの出会いを経験する時に、人は必ず変えられていきます。
 この時、預言者イザヤは、主なる神さまとの出会いを通して、彼が生きていた社会がいかに神さまの基準からかけ離れた状態にあったかを思い知らされました。
それと共に、その社会の中にどっぷりとつかっていた自分に気づかされました。
そうした中で、いつの間にか、聖書の価値観ではなく、この世の価値観を当然と思っている自分を知らされていきます。
そして深い悔い改めへと導かれていきました。

 あなたはテレビやマスコミの考え方に、何か違和感を覚えることはありませんか?
あるいは逆に、聖書の価値観に違和感を覚えるでしょうか?
 そのような違和感を覚えるとき、理由がどこにあるのか、一度、立ちどまって考えてみましょう。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

あなたはキリストの僕です

「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。
あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」
(ガラテヤ1:10)

 英語に「ジョーンズさんの家族に負けるな(Keep up with the Joneses)」という表現があります。意味は、「見栄を張り合う」というものです。
会社の同僚が先に昇進するのを見て落ち込んだ経験はないでしょうか? わが子が苦闘している中、知り合いのお子さんが志望校に見事合格したことを知り、複雑な思いにさせられるという経験はないでしょうか?
 現実はこうしたことが多いように思います。では、人をうらやんだり、人と比べて優越感と劣等感の間を行ったり来たりする生き方から解放されるために、クリスチャンはどのように生きたらよいのでしょうか?

 答えは、聖書が教える価値観に立つということです。

 結局?最終的に良し悪しを判断するのは誰なのでしょうか? 会社の上司でしょうか? 友人でしょうか? 日に日に移り変わる世間の常識でしょうか?
 そうではありません。最終的に判断されるお方は、永遠に変わることのない神さまなのです。

 パウロは言いました。「わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。
もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」(ガラテヤ1:10)

 あなたはキリストの僕です。人に取り入るのではなく、神に認められることの方が大事なのです。このことを今日の一日、心に留めて生活してみてください。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

祈りに答えてくださる神さま

「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。
今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネ16:23、24)

 イエスさまは、御心にそって求めるならば、求めたものは必ず与えられるということを約束なさいました。

「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。
今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びに満たされる。」(ヨハネ16:23、24)

 この約束はすべてのクリスチャンに与えられているものです。ですから、あなたにも与えられている約束です。
 使徒パウロはこの約束を自らの人生において確かめるようにして生きた人でした。それによってキリストの「限りなく豊かな恵み」(エフェソ2:7)や、
「キリストの計り知れない富」(エフェソ3:8)を味わうことができました。

ですから、パウロはテモテに対しても「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」(1テモテ6:17)
勧め、神さまのことを、「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神」と呼ぶことができたのです。

 わたしたちの神さまは、祈るように励まし、その祈りに答えてくださるお方です。そのことを通して、あなたを喜びで満たそうとしておられるのです。あなたは、イエスさまのこの約束の言葉を信じますか?

 きょうの1日、キリストの恵みと平和があなたの上にありますように。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘