松本雅弘牧師の日々のみことば

月曜から金曜の毎朝、高座教会の牧師からメッセージをお届けします

摂理の神さま

「ナオミはこうして、モアブ生まれの嫁ルツを連れてモアブの野を去り、帰って来た。2人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まるころであった。」
(ルツ記1:22)

 不幸のどん底におかれたナオミをも、実は、神さまの御手が支えておられるのだという、心の目によってこそ初めて見ることのできる、「もう1つの現実」があります。 
 それは嫁ルツの存在です。心の目を開いてみる時に「あなたと一緒に墓の中までも」と言ってくれるルツがいたのです。しかし、この「もう1つの現実」にナオミの心の目が開かれていくには少しだけ時間が必要でした。
 ナオミは決して自分の力で故郷ベツレヘムに戻ってきたのでありませんでした。「主がその民を顧みて」くださったという出来事の中で起こったことなのです。私たちの行動に先立って、神さまはすでに働いておられるということです。
 聖書の神さまのことを「摂理の神さま」と呼びます。「摂理」とは英語ではprovidence(プロビデンス)という言葉です。これはprovide、すなわち「備える」という言葉から来ているのです。
 聖書を通してご自身を明らかにされる神さまとは、備えてくださる神さまです。私たちの生活の中に、すでに恵みを備えていてくださるお方が、まことの神さまだ、というのです。
 大麦の刈り入れの始まる頃、それは何かが起きそうな書き方です。その大麦畑において、ナオミに付いてきた嫁ルツが、ボアズという男性と出会い、そこから新たな展開が始まるのです。この家系からイエスさまが誕生するのです。
 こうした壮大な救いのドラマが、この時、神さまによって準備されていたのです。まさに、「大麦の刈り入れの始まるころ」というのは、そうした神さまの御手の業を予感させる言葉です。摂理の神さまが祝福を備えておられます。
 神さまに心の目を開いていただき、日々の生活の中に隠されている恵みを1つひとつ発見し、数えながら、導かれていく歩みでありますようにと祈ります。

 いってらっしゃい

 牧師 松本雅弘