松本雅弘牧師の日々のみことば

月曜から金曜の毎朝、高座教会の牧師からメッセージをお届けします

月別: 2019年1月

あなたにとって「とうごまの木」とは?

「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。
それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。
そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」(ヨナ4:10−11)
 
 以前、ある牧師がヨナのことを「すねた預言者」と呼んでいましたが、まさに預言者ヨナの姿は、思い通りにならずにすねてしまっている子どものようですね。
 それに対して神さまは、子どもをなだめるように、一所懸命にヨナを諭し、信仰のチャレンジをしておられるのです。
 神さまの憐れみが、当時の敵国ニネベの民を救ったことを喜べずに、「木陰」という自らの小さな世界がなくなってしまうことを大げさなほどに悲しんでいるヨナに対して、語られた言葉が今日の聖句です。

 ところで詩編22編に、メシアを「虫」に譬えた言葉が出て来るのですが、ある注解者は、その詩編とヨナ書に出てくる、とうごまの木を枯らした「虫」とを関連付けて次のように書いていました。
「神はカルバリの丘で小さな虫を通して、大きな世界を見せようとしておられる。イエス・キリストという虫なしには、私たちは大きな世界を見ることができないであろう。
十字架を通して神の偉大さを見、大きな世界を見ることなしに」。
 私はヨナのように、「とうごまの木」にしがみ付いていないだろうかと思わされました。時に神さまは、もっと大きな世界を経験させるために「虫」を遣わされるお方です。
 あなたにとっての「とうごまの木」とは何でしょう?もっと大きな世界を見るために、それは邪魔になっていませんか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

主を待ち望む

「まことに、イスラエルの聖なる方/わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と。
しかし、お前たちはそれを望まなかった。お前たちは言った。『そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう』と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない。
また『速い馬に乗ろう』と言ったゆえに/あなたたちを追う者は速いであろう。」(イザヤ30:15−16)

 今日の聖句は、預言者イザヤが、南ユダの人々に対して取り次いだ主の言葉です。
 当時、南ユダは、アッシリアに脅かされ、国家的危機に直面していました。
そうした中、イザヤは「お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と主の御言葉を預言したのです。
 ところが、残念なことに、この御言葉を聞いた南ユダの人々は、自分たちで馬を調達し、「もっと速い馬に乗ろう」と言って、結局、主なる神さまを待ち望むことをしませんでした。
その結果、彼らの「望む通り」(?)馬を走らせたため追っ手に追われ、速い馬が速さを示せるように、さらに足の速い追っ手が彼らを追い掛けてきたのです。

 ところで、あなたが問題に直面した時、どうしますか?祈るよりも先に、友人にメールをしたり、電話したりしますか? 勿論、そうした助けも必要なことだと思います。
 でも聖書は、最終的に、さまざまな人々を用い、事柄を動かし、救いの解決へと導いてくださるお方は、主なる神さまであると教えています。
 もし何か難しい問題にぶつかった時に、今日の御言葉を思い出してください。

 メールをする前に、電話をする前に、まず一呼吸置くようにして、神さまにお祈りし、その後で、メールをしたり、電話をしたりしてみてください。
 神さまは必ず、あなたに解決の道を与えてくださると信じます。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

幻を見る若者

「その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。」(ヨエル3:1)

 国立社会保障・人口問題研究所が、18歳から34歳の若者を対象に調査した結果、「交際している異性はいない」と回答した独身者が男性で70%、女性で59%だったという報告が数年前にありました。
しかもその半数近くが「特に異性との交際を望んでいない」と答えたそうです。
 この調査結果を受け、「背景の1つに将来への不安があろう。雇用、年金、環境と、若い層の漠たる不安は次第に鮮明になって来た。我が身の明日も読めない時に、家庭は構えづらいのでは」と新聞はコメントしていました。
 昨日、高座教会でも成人のお祝いの時を持たせていただきました。「人生に四季がある」とトルニエは語りますが、成人になった若者は、まさに春から夏にかけて汗を流す季節を迎えようとしています。
 そのような時、ほんとうに汗を流し、エネルギーを傾けられる将来やビジョンがあるかは、今の若者たちが抱える大きな課題だと、改めて思わされました。
 イエスさまが誕生される数百年前に、預言者ヨエルは、聖霊が与えられることと、その結果、「若者は幻を見る」という恵みの預言をしました。
その預言どおり、ペンテコステに聖霊が降り、「若者が幻を見る」環境が整ったのです。

 イエスさまは「あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」とはっきりと言われました。
若者が幻を見るためには、若者自身がぶどうの木であるキリストにつながり、聖霊の樹液(恵み)を豊かに受けることが必要です。
その時にこそ、この難しい時代の中で、若者は完全燃焼できる幻を主からいただくことができるのだと確信しています。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

人間らしく生きる

「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。
出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。」(マルコ6:30−32)

 今日は1月11日で、もうすでに学校も仕事も始まり、年末年始の休みから次第に日常を取り戻しつつあるのではないかと思います。このメールも電車の中で読んでおられるかもしれません。
 この時の弟子たちは、あなたと同じように人々に囲まれた毎日を過ごしていました。「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかった」というくらいの忙しさの中にいました。
 弟子たちがイエスさまのところに集まって来て、そして、自分たちが行ったことや教えたことを報告したのです。それも「残らず報告した」と書かれているほどに、事細かに報告したのだと思います。
その後、イエスさまはその弟子たちに対して「しばらく休むがよい」と言われました。イエスさまは、弟子たちのニーズをご存知でした。

 以前「24時間、戦えますか」というキャッチコピーのCMが流れましたが、よく考えるととても恐ろしい問いかけですね。
何故なら、もともと人間は、そのようには造られていませんし、逆に、人生の3分の1の時間を眠るように造られているのが私たちです。
ですから真に霊的であるということは決して人間離れした行動を取ることではなく、人間らしく生きること。日々、主に報告し(祈り)、肉体の疲れをいやす休息をいただくこと(主に委ねて憩うこと)です。

 クリスチャンの生活とは、特別な生活ではなく、むしろ、造られた人間として生きることなのです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

証しし続けよう

「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。』
パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。」(使徒18:9−11)

 パウロは、コリントに来る直前、アテネで伝道しました。でも思うような成果が得られず、肩を落とすようにコリントに向かったのです。
 でも、そうした中で、神さまはパウロに幻を示されました。それが今日の聖句です。
 その結果、彼は励まされ、1年6カ月の間、コリントに腰を据えて伝道活動に打ち込むことになります。ここに出てくる「この町には、わたしの民が大勢いるからだ」という言葉は、私たちにも与えられている約束です。
 私たちが「福音の言葉」という神の民の共通語を語るように、あのペンテコステの日にエルサレムに集った人々の中にも、潜在的な神の民がいて、その共通語に反応してきたのです。

 今、「閉塞感」という言葉をよく耳にします。また、「戦後」にかわる「震災後」という時代に突入しました。色々な意味で証しすることの困難さを経験します。
 でも、アウグスチヌスが、「人は神に向けて造られており、人の心は神に憩うまでは安らぎがない」と言い、パスカルが、「人の心は神によってしか満たされない空洞が空いていて、神以外の何ものをもってしてもそれを満たすことができない。
神によってその空洞が満たされるとき、人は生きる」と語るように、全ての人が神のかたちに似せて造られているならば、必ず、その深いところに神を求める渇きがあるはずです。
 この渇きにこそ、実は、福音宣教の可能性と接点とがあります。
 私たちは今日も、「福音の言葉」の力を信じ、祈りつつ、忍耐をもって、愛する方たちにイエスさまを証ししていきたいと思います。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

憐れみという祝福を祈り求める

「愛する子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。」(2テモテ1:2)

 パウロはエフェソ教会に仕え、福音のために苦闘しているテモテに向かって、「愛する子テモテよ、テモテよ」と優しく語り掛けた後で、すぐさまテモテのために「父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように」と祈りました。
 普通、パウロの手紙では「恵みと平和」を祈るのですが、テモテに宛てた手紙では、その2つの祝福に加えて、「憐れみ」を祈り求めています。何故、パウロは神さまの憐みがテモテに働くようにと祈っているのでしょうか。
 実は、テモテという働き人の抱え持つ弱さと共に、その彼が牧会の務めを託されたエフェソ教会の課題がたくさんあったからです。そうしたことを知れば知るほど、恵みと平和という神さまからの祝福に加え、どうしても憐れみという祝福を祈り求める必要がありました。

 ところでパウロがテモテのために祈り求めた「憐れみ」とは何でしょう?
 聖書に出てくる「憐れみ」とは、自分ではどうしようも出来ないような弱さや足りなさに対する神さまの特別なお取り扱いの祝福のことを意味します。
 テモテは、牧師として、器の小ささ、若さ、肉体的な弱さ、そして性格的な弱さを抱えていました。ある意味でいくら頑張っても、どうにもならない事柄を抱えていたテモテを見たパウロが、神さまに向かって、このようなテモテのために切に祈り求めたことが、「憐れみ」という神さまからの祝福でした。
これこそ、この時のテモテが一番に必要としていたことだったからです。私たちもパウロのようなとりなしの祈り手として成長させていただきたいですね。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

根気強く祈ること

「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」
(ローマ8:26)

 祈りとは何でしょう。リンカーという宣教師は、「祈りとは神さまとの会話である」と定義しました。スポルジョンは、「祈りは全能者の筋肉を動かす神経である」と定義しました。
 では、あなたにとって祈りとは何でしょうか。今まで祈りについてどんな経験をしてこられましたか? 祈りということでいつも思い出すのは、神学校の面接の時のことです。
全員が集まった中で、先生方がそれぞれ自己紹介を始めた時、田辺滋という先生が「祈って、お待ちしておりました」とお話しくださったのです。
 「田辺滋」と言えば、神学生でしたら誰でもお世話になるギリシャ語文法書を翻訳された先生です。
その先生の口から、以前、お会いしたことがないのに「祈って、お待ちしておりました」と声を掛けられ、大変恐縮したのと共に、本当に有難く、なおかつ嬉しい気持ちでいっぱいになったことでありました。
 確か、大学を卒業してすぐの時に、神学校を訪ね、その時、名前と住所を残してきました。それを手掛かりに「松本雅弘という若者の献身の思いが全うされるように」と、ずっと祈っておられたそうです。
その後、2年してようやく受験にまで漕ぎつけたのですが、その間、何度か、止めようという思いも起こったことも思い出しました。でも、こうした先生方の祈りによって支えられたのだ、と改めて知らされる貴重な経験となりました。
 祈りの大切さ、言い換えれば神さまは必ず祈りを聴かれるということ、それ故に根気強く祈ることの大切さを教えられる貴重な経験となったことです。
 あなたにとって祈りとは何でしょうか。今まで祈りについてどんな経験をしてこられましたか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

「わたしたちに」と祈りを導くイエスさま

「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」(マタイ6:11)

 イエスさまは主の祈りの中で「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と教えてくださいました。
 でも、今はどこのお宅でも冷蔵庫を開けますと、何がしかの食べ物があります。
ですから、正直言って、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りは、時代と共に切実さが薄れてきているとも言えるかもしれません。
 では、私たちは、どんな気持ちで、この祈りを捧げるべきなのか、という課題が残るように思うのです。実は、この問いを解く鍵が次の御言葉です。

「二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。むなしいもの、偽りの言葉を、わたしから遠ざけてください。
貧しくもせず、金持ちにもせず わたしのために定められたパンで わたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り 主など何者か、と言うおそれがあります。
貧しければ、盗みを働き、わたしの神の御名を汚しかねません。」(箴言30:7−9)

 ここで箴言の著者は、「ただ、なくてはならぬ食べ物で私を養ってください」と告白しています。
つまり、この告白の背景に、「私たちの生活にとって、なくてはならない必要最低限のものまで、自分の力ではどうにもならず、ただ神さまによって与えられなければならない」という神さまへの告白があるということです。
 そしてもう1つ、「わたしに」ではなく「わたしたちに」と祈るようにと教えられています。この世界には今もなお多くの人が飢えに苦しんでいます。
その人たちと共に「わたしたちに」と祈る時、そのように祈る私に対して、神さまは何か具体的な導きをくださるかもしれません。
 そのようなことを考えながら、今日も主イエスさまが教えてくださった祈りを唱えつつ、歩んでいきたいと願います。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

神さまの御前に静まるとき

「『静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる』。
万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。」  (詩篇46:10−11 口語訳)

 神さまの御前に静まるとき、必ず2つのことが起こるでしょう。
1つは、神さまというお方が、あなたの理解を超えて、いかに偉大で、慈しみ深く、聖なる方であるかということ。
そして、もう1つは、その大いなる神さまが、愛の眼差しをもって、どれだけあなたを大切に思っておられるか、ということです。
たとえ、他人があなたに対して何を言い、どのように評価しようとも、神さまが、あなたをどのように見ておられ、評価しておられるかのほうがはるかに大事なのです。
いや、神さまがあなたをどれだけ愛しておられるかが、もっとも大切なことでしょう。なぜなら、そのことこそが真実なことであり、ほんとうの意味で正しいことだからです。
神さまの御前に静まるなかで、〈神さまがいかに愛に満ちたお方であるのか〉、そして、〈(こんな)わたしが神にとってどれだけ大事な存在であるのか〉に気づかされ、
その結果、驚きとともに、畏れと喜びを味わうことでしょう。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10、口語訳聖書)。

きょうの1日、この神さまが、あなたと共に出かけてくださいます。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

主の導きの流れに任せる

「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」(箴言3:5−6)

 星野富弘さんが小学生の頃、近くの渡良瀬川に、よく泳ぎに行ったそうです。
 ある日、いつもは穏やかに流れている川が、夜半に降った雨のせいで勢いよく流れていました。兄さんたちは流れを乗り越えて向こうの岸へと泳ぐのですが、小さな富弘さんは自信がなく、浅瀬で水遊びをしていました。
ところが気がつくと、いつの間にか川の中ほどに居る自分に気づき、あっという間に足を取られてしまったのです。慌てて戻ろうとしますが、流れが速く、戻ることが出来ません。
焦れば焦るほど、逆に押し流されてしまったのです。そして、〈もうだめだ、死ぬ〉と思った時、ふと頭に浮かんだことがありました。
それは渡良瀬川には深いところもあるが、そのほとんどは浅いところばかりだ、ということ。
〈そうだ、もと居た方に戻るのではなく、このまま流されていれば、きっと浅いところへたどり着く〉。そのようにして、無事に浅瀬にたどり着いたそうです。
「何もあそこに、戻らなくてもいいじゃないか・・・流されている私に、今できる一番よいことをすればいいんだ。
そのころから、私は歩けない足と動かない手と向き合って、歯を食いしばりながら一日一日を送るのではなく、むしろ動かない身体から、教えられながら生活しようという気持ちになったのである」と星野さんは『風の旅』に書いています。

 新しい年の歩みも、主の導きの「流れ」に任せましょう。あなたを覚え、あなたの道筋を常にまっすぐにしてくださるお方が主なる神さまですから。

 今日の一日、主の恵みがあなたをすっぽりと包み、運んでくださいますように。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘