「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)
人間は、神に創られたがゆえに、神を離れては本当の意味での満足と平安をいただくことはできないと聖書は教えます。創世記にはまさに、その事が出てきます。
神さまとの関係の中に生かされていた時、人間は自分が自分であることに満足し、喜んでいました。自分が好きだったのです。人と比較して、優劣をつけて、鼻が高くなったり、落ち込んだりすることからも自由でした。
ところが、神さまとの関係がズレてしまったとき、人間は自分との関係もズレてしまいました。神さまとの縦の座標軸を失った時に、彼は宙ぶらりんとなり、結局、横との関係で、自分の位置を確かめることしかできなくなりました。
そのようにして横同士の比べ合いや競争が始まりました。
今まで神さまとの関係でたくさんの恵みをいただき、愛を十分に受けていましたから、満たされていました。
ところが、神さまとの関係が切れたことによって、自分が分からなくなり、自分が嫌になり、無意識の内に神さまの愛の「代わりとなるもの」を一生懸命求めて渇いたのです。言わば、愛の綱引き、愛の奪い合いが始まりました。
こうした私たちの心を見られたイエスさまは、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と招いてくださっているのです。
喉が渇き、そして、そして喉の渇きを癒したいと思った時に、綺麗な滝が流れていた。私たちはその滝にコップを差し出さなければ、その水を私のものとすることはできません。それが、信じるということです。
そして、その水を飲むことによって、私たちは少しずつ変えられていくのです。
あなたは渇いていませんか? イエスさまの招きに応答し、そのお方のところで、心の渇きを癒していただこうではありませんか。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘