松本雅弘牧師の日々のみことば

月曜から金曜の毎朝、高座教会の牧師からメッセージをお届けします

ただ恵みによって

「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。
『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18:13−14)

 ここに登場する「ファリサイ」とは「区別する者」という意味のあだ名だったそうです。一般のユダヤ人を軽蔑し、自分たちだけが律法に忠実で、立派で、神さまに報われるべきであると誇る者たちに対するあだ名です。
ところで、わたしたちには、人と比べ優れている点を見つけて力を得たり、逆に自分が劣っていると落ち込む時は、自分よりも劣る者を見つけ、生きる励みにしたりすることはないでしょうか。そうした醜い罪の心が自分にあることを認めざるを得ません。
一方、徴税人はどうだったのでしょうか?彼が使った「罪人のわたし」とは原文のギリシャ語では、定冠詞が付いた「罪人」となっています。「私は1人の罪人である」ではなく、「罪人と言えば、この私」という告白です。
つまり「他の人はどうであろうと、私は罪人そのものである」と受けとめていた。それは、神さまの御前に立たなければ出てこない認識だと思います。

 以前、礼拝でイソップ物語の「ウサギとカメ」の話を紹介しました。ウサギは常にカメだけを見ていた。カメと比べ自分が先か後かを見ていた。横との比べ合いの中で行動していたのです。
これに対してカメは、ウサギとの比較ではなく、ただゴールだけを見ていました。私は、このウサギとカメが、ファリサイ派の人と徴税人と重なって見えてきました。
 あなたは、神さまの前に、ファリサイ派のようですか、それとも徴税人のようでしょうか?私たちは、この徴税人同様、神さまの一方的な憐みの中で神の子として生かされていることを心に覚えたいですね。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘