「行って来なさい。わたしがあなたに何をしたというのか」(列王記上19:20)
今日の聖句は、エリシャが預言者として召され、家族や両親に別れの挨拶をしたいと願った時に、エリヤがエリシャに語った言葉です。
この時のエリシャにとってエリヤとは、自分を献身に導いてくれた大切な先輩預言者で、今後も指導を仰ぐべき師でした。
ところが、そのエリヤの口から「わたしが何をしたのか」と、突き放されるような言葉が飛び出したのです。
何故でしょう? それは、エリシャを自立させるためだったからです。
預言者の歩みには困難がつきものです。
だから御言葉と祈りを通して神さまにつながり、その都度、具体的な導きや解決、励ましや慰め、癒しを、直接、神さまからいただかなければ、預言者としての歩みは務まるものではないことを、
誰よりもエリヤ自身が経験していたからなのです。そうでなければ、すぐに自己憐憫や責任転嫁で、問題の解決をはかろうとしてしまうからなのです。
少し冷たいように聞こえますが、「わたしが、あなたに何をしたのか」と突き放す言葉によって、若者エリシャを神さまにつなげることができます。
そして、そのお方に受けとめられ、優しくされ、ある時は褒めていただき、心の内側にある全部を受けとめていただいたうえで、
祝福にあずかる術を、預言者の見習い期間中に、ぜひ伝えたいと考えていたからなのです。
この後、エリシャは自ら立ち上がり、従い、仕えて生きた姿を聖書は伝えています。
先輩エリヤに仕えることを通し、主なる神さまにお仕えして行ったわけですが、この「立つ」「従う」「仕える」という3つの動作を表わす言葉は、
実は私たちがクリスチャンとしてイエスさまに従って歩んで行く時に、繰り返し、繰り返し求められる動作なのではないかと思います。
今日イエスさまはあなたに、どのような「立つ」こと、「従う」こと、「仕える」ことを願っておられるでしょうか?
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘