「だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。」
(2テモテ1:8)
テモテは穏やかな人でしたが、見方を変えると気の弱いタイプの伝道者でした。
福音のために苦しみを共にするよりもむしろ、困難に直面すると尻込みし、恥ずかしく感じてしまうような性格の持ち主がテモテであることをパウロは見抜いていました。
さらにまだまだ年齢的に若かったですし、それは経験のなさにもつながっていました。また、すぐに体に不調をきたすような肉体的弱さも抱えていました。
さらにパウロが囚人となっており、釈放の見通しも立たない中、パウロの代わりを果たす役割について考えれば考えるほど、気が重くなったのではないかと思います。
すでにエフェソ教会の牧師としての働きで一杯いっぱいだったわけですから・・。
このような行き詰まりは、時に私たちも経験するのではないでしょうか。
さて、こうした中「わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。」(1:3)
と言って、テモテのことをいつも覚えては祈り感謝しているのだ、とパウロは語っています。
つまり、神さまの御前にテモテのことを思い起こし、彼のために祈る中で、そうしたパウロの心の中に確信が与えられていったのではないでしょうか。
それは、そのようなテモテを憐みの御手で支える神さまがおられること。また、現にテモテに託されている責任を全うする上で必要な賜物を神さまがしっかりと用意してくださっているという確信。
だから「恥じてはならない」と言って励ましているのです。
時に、後ろ向きの思いになることがありますが、でも「恥じてはならない」という励ましの言葉に支えられ今日の一日過ごしたいと願います。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘