「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」(2コリント4:7)
聖書は、私たち人間のことを「土の器」と呼びます。なぜなら、私たち人が感じる虚しさの根源は、結局のところ、私たち人間は「自分で自分を満たすことの出来ない存在」であるということを聖書は教えているからなのです。
では、何で「器」なのでしょう?それは、あなたが、神さまからの愛を「盛られ」て、はじめて人間らしく生きることができる存在だからなのです。
ですから、本当の意味で満たされ経験ができるのは、「神さま、私はむなしい者ですから、どうぞあなたの恵みと祝福で満たしてください。あなたの聖い霊をお与え下さい。」と祈ることを通してなのです。
そして聖霊によって満たされてはじめて、「本来あるべきあなた」として、いきいきと生きることができるからです。
学生の頃、ある先生がこんなことを話してくださいました。
「松本君、少し逆説的に聞えるかもしれないが、あなたが満たされていくために必要なことは、空っぽになっていくことだよ。」と。
神さま以外の「頼りになるもの」で、心が一杯になっていることはありませんか?その結果、一番大切な聖霊で満たされる領域が少なくなります。神さまに頼らずに出来るわけですから・・。
でも、そうした「頼りになるもの」がなくなって「空っぽ」になっていく時、すなわち、何かを捧げたり、取り去られたりしていく時、当然、次第に心は不安になるかもしれません。
でも、その時こそチャンスなのです。実は不安を感じるからこそ、キリストの平安があなたの心を満たすのです。そのようにして聖霊に満たされていくのです。
その不安を「つまらないもの」で満たす前に、空っぽになって、最も良いもの、すなわち聖霊で満たしていただきましょう!あのエゼキエルの預言のように、死んだ骨でも生き生きとしてくるからです。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘