「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた」(ルカ9:46)
「だれがいちばん偉いか」と問う者の関心は、神さまではなく「自分」にあることは確かです。私たちは、何をするにも、最後までつきまとうのが、この「自分」です。私たちは、ここから、なかなか離れることができません。
会社の中においても、消費者のために汗を流すとか、会社に貢献する以前に、だれが出世するかが大きな問題となります。自分の賜物は何で、それをどのように生かして行けるか、ではなく、自分の成績がクラスで何番か、が重要になります。
「他人よりも上か下か」が大きな問題です。
信仰の世界でも、悲しいかな「だれがいちばんか」、「だれが教会のことをよく分かっているか」、「だれが聖書のことがよく分かっているか」と競争が起こりかねないということです。
ある神学者が、信仰について次のように定義しました。「神学とは、朝起きた時、神が何を心配しているだろうかと考え、神の心配事を神と共に心にかけることだ」と。言い換えれば、「信仰生活とはイエスさまの関心事が私の関心事になること」。
私たちがクリスチャンとして成長する時、今まで自分のことだけでしたが、隣人のことに心が向くようになってくることでしょう。何故なら、神さまがその隣人のことを心にかけて、「隣り人」として私の近くにおいてくださったからですね。
この時の弟子たちが知るべき、イエスさまの関心事とは何だったのでしょうか? 主のお働きは常に、相手の病や患いを身に背負う歩みでした。
イエスさまの視線の先にある人、イエスさまが歩みだすその先にある人の苦しみ、それが、主が心かけておられることだったです。この時イエスさまの歩みの先にあるもの、それは十字架でした。私たちの救いでした。私の家族の救いだったのです。
このことを覚えておきたいと思います。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘