「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」(ルカ14:5)
ある安息日にイエスさまはファリサイ派のある議員の家に入られました。そこに居合わせた人々の目は、じっとイエスさまに注がれていました。何故なら、その日は安息日で、イエスさまの正面に水腫を患っている人がいたからです。
つまり〈何か起こるぞ〉という野次馬的な期待感が居合わせた人々の心の中にあったようです。
これに対してイエスさまは彼らの魂胆を見抜かれ、彼らに向かって「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないのか」と訊ねたのです。居合わせた人々は誰一人として答えることができずに黙っていました。
ではイエスさまはどうされたでしょうか。水腫を患っていた人を癒し、家に帰したのです。そして人々に向かって「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」と御語りになりました。
ところで、ここでイエスさまは、極めて当たり前のことをお語りになりました。でも当然のことを話さなければならない程、当時のユダヤ人たちは、人には厳しい要求を押し付け、助けることに制限を加えるという矛盾を犯していたわけです。
それに気づかせたかったのだと思うのです。
さて、もう1つのことを注目しましょう。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」と言われた時、イエスさまが、単に「子ども」と言わずに「自分の息子」と言われたことに注目したいと思うのです。
これは、神さまの眼からご覧になると、水腫を患った彼は「自分の息子」なのです。ですから神さまの「愛する子」です。
そのように神さまは全ての人を「自分の愛する子」として見ておられるのです。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘