「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように』」(マタイ6:9−10)
弟子たちが願って教えていただいた祈りが「主の祈り」でした。その「主の祈り」の最初に出てくる祈りが神のことを祈る祈りでした。
イエスさまとの関係にたとえるならば「私のイエスさま」から「イエスさまの私」に信仰姿勢が変わるように促す祈りです。誰しも愛してくださるイエスさま、願いを聞いてくださるイエスさまというところから信仰に入ることでしょう。
でもある時点から「イエスさまの私」つまり「イエスさまの御心を求める私」に変えられていくのです。
礼拝を捧げることも広い意味で祈りです。何故、礼拝に来るのでしょうか。解決されたい問題があるから、語られる御言葉を通して問題解決を得たいからでしょうか。それも大切な理由です。
でも礼拝の式次第の最初に何がありますか?「招詞」です。神が招いてくださるから礼拝しに集うのです。私の側の求め以上に神が礼拝されることを願っておられます。ですから礼拝を「守る」のです。
「信仰告白」にあるように、人間は神を礼拝するために造られ生かされているのです。
それを真の神さまを知らない人のように、自分の願いばかりを求めて、礼拝してもしなくてもよい、「したいか、したくないか」は私の判断に委ねられていると勘違いしてはならないのです。
初詣に祈り、受験の前に祈り、商売繁盛のために祈り、その時々に祈りを捧げれば、それで済んでしまう祈りは、まさにイエスさまが避けるべきであると教えた「異邦人の祈り」そのものですね。
主は、「父よ」と呼びかけた後、「御名が崇められますように。御国が来ますように」と、神さまの御心の中にある事柄に集中するようにと教えてくださっています。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘