「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう 『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ。」
(詩編42:6−7)
土曜日の朝、職員の祈祷会の後、いつも土曜日と日曜日のスケジュールを報告し合い、誰がどこで何をしているのか、お互い理解した上でそれぞれの働きにつきます。
先日、私が報告する番になり、土日のスケジュールを報告するだけなのに、心に物凄い負担を感じたことがありました。
こんなことをお話しして何になるかと思いますが、こうした日常は、社会生活をしている多くの方たちのごく日常の生活なのではないかと思います。
忙しい毎日を送っていると、そこには必ず落とし穴があります。それは忙しさ自体が目的となり、それが何のためか忘れてしまうということです。
またいつも心にかけてくださる神さまのことを忘れ、日常生活と神さまとが切り離されてしまうことがあります。
まさに「忙しい」という漢字が「心を滅ぼす」と書くように、心の空っぽさをスケジュールでも埋めることによって何か満たされたように錯覚する誘惑に遭います。
さて、今朝の聖句は、涸れた谷に鹿が水を求めてやってくるように、詩人が主を求めてやってくることを歌った詩編42編の一節です。
自らの魂がカラカラに渇いていることを知った詩人が、神さまと自分の魂の間に割って入るように、
「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう 『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ。」と、
自分の魂に向けて励まし寄り添う言葉をかけると共に、神さまに向けて執り成しの祈りを捧げています。
今日、あなたの魂は渇いていませんか? 今日、どこかで、あなたの心や魂の状態を振り返り、そのことを神さまに執り成す祈りを捧げてみてください。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘