「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』
これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」(マタイ2:1−3)
茨木のり子さんの詩に「倚りかからず」という詩があります。
もはや/できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや/できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや/できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや/いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて/心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目/じぶんの二本足のみで立っていて/なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば/それは/椅子の背もたれだけ
この詩を読み、大きな衝撃を受けたことを今でも覚えています。もっと正確な言い方をするならば、挑戦を受けたように感じました。
同時に、その時、ルターの次のような言葉も思い出したことです。
「今、あなたが、あなたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それがほんとうにあなたの神なのである。」
茨木さんの詩もルターの言葉も、問題となっているのは〈何に心をつなぎ、何に信頼を寄せてきたのか〉ということだと思うのです。
聖書を読むと、神さま以外のものに倚りかかりしがみついて生きている人と、イエスさまに全てを委ねて生きている人と、2種類の生き方をしている人々が出てくるように思います。
とても荒い分類の仕方ですが・・。
片方の代表がヘロデ、もう片方の代表が博士たちです。前者の心は「不安」であり、後者の心は「平安」でした。
ヘロデの不安は大勢の幼い命を犠牲にし、博士たちは宝物を捧げた後も心が満たされていたのです。あなたはどちらですか。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘