「イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。『何をしてほしいのか。』
盲人は、『主よ、目が見えるようになりたいのです』と言った。そこで、イエスは言われた。『見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。』」
(ルカ18:40−42)
1人の盲人がいました。埃っぽいエリコ街道の道端で行き来する人に物乞いをして生計を立てていました。
ある日、彼は大勢の人が移動する地鳴りのような音を体全体で感じ取ったのです。訊けば、「ナザレのイエスのお通りだ」とのこと。
毎日、そこに座っていて、行き来する人々が語る噂やニュースを誰よりも先に耳にしていましたから、「ナザレのイエス」と聞いた途端、〈イエスさまがお出でになる。ぜひ、そのお方に祝福していただきたい〉と考えたのです。
彼は人々の制止を振り切って、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と大声で叫びます。叱りつけ黙らせようとしますが、聖書は「ますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた。」と伝えています。
そしてイエスさまが彼を御許に呼び寄せられました。そして、一言「何をしてほしいのか」と質問された、というのです。
今、あなたの目の前にイエスさまが来られ、あなたをじっと御覧になった上で「何をしてほしいのか」と尋ねられたら、どう答えますか?
自分自身の限界を知っているが故に、もう自分に期待することはしない、という人もあるでしょう。でも、ここでイエスさまは「あなたが自分に期待しないのは結構。でも神である私に何を期待しますか」と問うているのです。
聖書は神さまの約束の言葉で溢れています。神さまは、受けることより与える祝福の方が数倍、いや何十倍も素晴らしいことを私たちに体験させたいのです。それをへりくだって祈り求めていこうではありませんか。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘