「祭司たちが聖所から出ると、雲が主の神殿に満ちた。 その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が主の神殿に満ちたからである。ソロモンはそのときこう言った。
『主は、密雲の中にとどまる、と仰せになった。荘厳な神殿を/いつの世にもとどまっていただける聖所を/わたしはあなたのために建てました。』」
(列王記上8:10−13)
「雲」は、「出エジプト」を経験したイスラエルの民に与えられた、神さまの臨在を表わす恵みのしるしでした。
この時代、神さまの臨在をしめす、その雲は、常に会見の幕屋の上に留まってはいましたが、その雲が動き出すと、イスラエルの民も腰を上げて旅を続けていったのです。
さて、今日の聖句は、ソロモン王が神さまのために神殿を建立し、そこに契約の箱を運びいれた直後、その雲が神殿に満ち、神さまの栄光が現されたことが語られています。
これ以前は、移動可能な会見の幕屋に契約の箱が安置され、その上に臨在の雲がとどまっていましたが、これ以降は、ソロモンの建てた神殿の奥の至聖所に契約の箱が安置され、そこに神さまの臨在を表わす雲が留まることになりました。
ここでソロモンは、「主は、密雲の中にとどまる、と仰せになった。荘厳な神殿を/いつの世にもとどまっていただける聖所を/わたしはあなたのために建てました」と言って、彼自身の願いを祈っています。
でも、どうでしょう。神さまは、ソロモンの「都合」を超え、御自分の願う仕方で願うところに臨在なさるお方でもありますね。籠の中の鳥のように神さまを閉じ込めておくことなど出来るはずもありません。
ともすると私たちも、神さまを「扱いやすい」仕方で「利用」することはないでしょうか? 都合の良い時にだけ「居ていただき」、都合の悪い時には「出て行っていただく」ことを求めていないでしょうか? 少し考えてみてください。
いってらっしゃい。
松本雅弘