「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17)
公生涯の最初、主イエスは、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。
その時、聖霊が降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえた、と聖書は伝えています。
病気を癒し、奇蹟をなさり、説教をお語りになるというメシアとしての具体的な働きが全く始まっていなかった時、すでに父なる神は主イエスさご覧になり、
「愛する子、わたしの心に適う者」と喜ばれました。そして大切なことは、これは私たちにも当てはまる真理だということ、「神が愛してくださっている。ゆえに私は生きる」ということです。
17世紀、哲学者デカルトが「我思う。ゆえに我あり」という有名な命題を提示し、啓蒙思想の幕が開けました。
そして現代はどう言い表せるかと言えば、「我、持つ。ゆえに我あり」とないかと思います。人間としての価値が、その人の成したことにかかっている。
受洗された主イエスは、荒野に導かれ、父なる神さまと深い交わりを経験し、その後、サタンの誘惑を受けます。その誘惑は、物の所有、世間からの評価、世での影響力の3つの誘惑でした。
この3つをどれだけ持つかによって、その人の価値が決まる。それが、サタンが私たちの心に刷り込む、「我、持つ。ゆえに我あり」という世界観です。
でも聖書は、そうしたこれを真っ向から退けます。
「神、我を愛する。ゆえに我あり」、これが聖書の初めからのメッセージなのです。
創造のクライマックスとして人を創造された神は、人をご覧になり、「極めて良い!何て素晴らしいのだ!」と喜び感嘆されます。人間が神に対して、気の利いたことをしたからではありません。
あくまでも存在そのもの、beingを喜ばれたのです。そしてこの事実は永遠に変わることがない、私たち一人ひとりにとっての真実なのです。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘