「何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです」(新改訳聖書 2コリント3:5)
英語で人間のことを“human being”といいますが、現実は“human doing”なのではないかと語る人がいます。人の存在価値が、その人のdoingによると考えるからです。
この点についてJ.B.スミスは次のように述べています。
「・・・あなたは神にとって価値ある存在なのです。あなたがどうであろうと、神はあなたを愛されます。あなたの価値は、あなたの業績にかかわらないし、他の人があなたをどう思うかに左右されません。
あなたの価値は神のいつくしみ深い目に見出されています。あなたが試合に勝っても負けても、神はあなたを愛しておられます。あなたが断食し、祈り、貧しい人に施す時、神はあなたを愛されます。
仮にあなたが罪深く、自己中心であったとしても神は愛されるのです。神は契約の神なので、神の愛は決して変わりません。あなたは価値があり、尊い存在で、あなたのために死ぬ価値があり、そのままのあなたが大切なのです。
パウロはそれを美しく表現しています。『何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです』(2コリント3:5)。
私たちは認めてもらうために他の人を必要とはしません。私たちの価値は、他の人の意見から出てくるのではなく、私たちを高価で尊い存在だと宣言してくださる神のお考えから出てくるものです。・・・」
この聖書のメッセージを心の深いところで受けとめていない時に、私たちは「成果主義」の物語に縛られている者となります。その結果、聖書を読み、祈ること自体も神の好意を獲得する手段と勘違いすることが大いにあります。
そうではありません。私たちの存在価値は、成したこと/できること(doing)によらず、神からのものだからです。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘