「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ9:36)
「深く憐れむ」の原語「スプランクニゾマイ」は、ギリシャ語を話すギリシャ人たちも、この言葉で自分たちの神について語ったことがありません。むしろそれを拒否していました。
心を痛めるような神は、その時点で「神」とは呼べない。神であるならば全てから超越していなければおかしい、自分に悩みを負わせる者に振り回されてしまっていたら、その時点で神としては失格。決して神らしくない、と考えたのです。
でも主イエスはそうではありませんでした。主イエスは内臓が痛むほどに憐れみ抜かれた。これはある意味で、人々の愚かさを御覧になり、自分自身が取り乱し、それによって心が踏みにじられるままに任されたということでしょう。
このことがギリシャ人からしたら神として失格であったのです。
でも、思うに、こういう主イエスであるがこそ、私たちはそのお方の許に恐れなく、助けを求めて、赦しを求めて、恵みや憐れみを求めて、近づくことができるのではないでしょうか。
確かにギリシャ人は、そんなに深い憐みの思いを抱いたら、神が神でなくなってしまうと主張します。でも、本当の神はそうではなかった。深い憐れみに生きられたのです。
主イエスが誕生されたのは家畜小屋、すぐに飼い葉桶の中に寝かされました。最初の礼拝者はなんと人口調査の対象外の羊飼いたちでした。ヘロデ王に追われ、エジプトで難民生活を強いられた。シリアの難民と同じ境遇です。
大人になったらなったで、人々から苦しめられ続けたのです。そしてその極みが十字架でした。本当に、これほどまでに神らしくない神は一体どこにいるでしょうか。
でもイエスさまはそういう神さまなのです。だからこそ、私たちは恐れることなく、このお方に近づくことができるのです。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘