松本雅弘牧師の日々のみことば

月曜から金曜の毎朝、高座教会の牧師からメッセージをお届けします

敬老感謝礼拝を前に

「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」(エフェソ2:19)

 最近は、家族がらみの犯罪や事件が、普通に、そして頻繁に起こるようになりました。
ですから、手放しで「家族」のことを取り上げることが難しくなっていると思いますし、むしろ家族に対してよい思いをもつ人の方が、次第に少なくなってきているのかもしれません。
実際、家族が共同生活を営む家庭において様々な経験をし、それが傷となっている人が少なくないのです。
 このように「家族」という言葉自体によいイメージをもてなくなっている状況の中、敢えて聖書は教会を「神の家族」と呼んでいます。
聖書が教える家族とは何でしょう。
それは《ありのままの自分で居ていいところ》ということです。色々な弱さや欠けを持ち、傷や痛みを抱える私たち一人一人の居場所、一人一人が大切にされる場、それが神の家族が集う教会という家庭でしょう。
もっと言えば、面倒をかけたり、かけられたりすることが許されるところです。
以前、ある方が、「年を重ねる喜びは、こういうことですよ」と言って、私に「最上のわざ」という詩をくださいました。

この世の最上のわざは何?/楽しい心で年をとり/働きたいけど休み/しゃべりたい
けれど黙り/失望しそうなときに希望し/従順に、平静に、おのれの十字架を担う/
若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、/人のために働くよりも、
謙虚に人の世話になり/弱ってもはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること

 本当にそうなのだなあ、と思いました。ある人は、聖書の教える神の家族を「自分の力の及ぶかぎりは人を助けると共に、自分の力の及ばないところでは人の助けを快くうけいれる、そういう場である」と定義しました。
なぜ、それが可能でしょうか?それは神さまが私たちの親だからです。

いってらっしゃい。

牧師 松本雅弘