「わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります」(1コリント2:6)
牧師をしていると、教会に集う方たちの「家族の物語」を聞く機会があります。しかもその物語は「主にある物語」でもありますから、どこか「聖書の物語」と響き合っています。
そうした「聖書の物語」には大勢の若者が登場します。モーセは若くして神に召され、後継者ヨシュアも同様でした。ギデオン、サムソン、ダビデも若き日の活躍が記録されています。
新約の時代に入り、12弟子も若い時代に主に従った者ばかりで、パウロもテモテも青年時代に信仰を表明しています。
一方でまた聖書は実に多くの重要な場面で年長者が大切な役割を果たしています。罪と悪がはびこった時代、恵みを受けつぐ者として選ばれたのはすでに年老いたノアでした。
アブラハムとサラが祝福を受け、約束の子を授かったのも老人になってからです。先ほどのモーセが実際に出エジプトを導いたのは80歳の時でした。少年ダビデを見いだし、油を注いで王としたのは、老預言者サムエルです。
新約の時代に入り、御子の誕生を喜ぶ輪の中にザカリアとエリサベトの老夫婦がおり、年を重ねたシメオンやアンナもいました。
確かに聖書は幼子性の大切さを教えますが、同時に教会は長老/年長者を敬うことによって成り立つ共同体であることを明確に説いています。
この点パウロも、「兄弟たち、物の判断については子どもとなってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。」と説き、「考え方では、大人となりなさい」と勧めているのです。
昨日は敬老感謝礼拝でした。誰もが毎年一歳ずつ歳を重ねながら歩んでいますが、歳を重ねることは、実は信仰に成熟していく道を進むことなのだ、というのが聖書の教えです。
ここに、信仰者として歳を重ねていくことの意味があるように思います。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘