「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」
(創世記2:24)
先日の新聞に、「思い出しては、31文字に寂しさを刻んだ10年」という見出しで、奥様を亡くされた、歌人で生物学者の永田和宏さんの記事がありました。
竹林が茂る京都市左京区の自宅一階。鎮痛剤のモルヒネがきいて、しばらく眠っていた妻が目を覚ました。2010年8月11日のことだ。
不思議そうに家族をみまわす妻。口元がかすかに動き、何かをつぶやき始めた。
傍らにいた夫の永田和宏さんは見逃さなかった。「歌だ」。すぐさま原稿用紙に書き留めた。10分ほどで数首ができあがり、おしまいはこの歌だった。
“手をのべてあなたとあなたに触れたときに息が足りないこの世の息が”
その翌日に妻は逝った。戦後を代表する河野裕子。2000年に乳がんが見つかり、再発、転移に見舞われた。闘病は10年に及んだ。・・・
伴侶とは時間を共有するひとだろう。妻と「今」は共有できない。でも、妻が残した言葉をかみしめながら、記憶のかなたの時間をいっしょに生きることはできる。そんな自負がうまれた。
本当におれでよかったのか。聞いてみたい。
きれいやなあ。もっと言ってやればよかった。
「やってられなかった分を何かで返したい。それが今の自分を生かしている」
“書くことでかろうじて乗り越えてきたのだらうきみの死なによりわが寂しさを”
今朝の聖句が心に浮かびました。「二人は一体となる」とは「共に生きる」ということ、これが聖書の教える結婚の目的と言っても過言ではないでしょう。
そのような意味で、永田さん夫妻は幸いな歩みをなさったのだなぁ、と思いました。
ある牧師が語っていました。いつか振り返って「この人は神が結び合せてくださった人だった」「あなたのお陰で、本当にいい人生を送ることができた」と言えるなら、それが本当の幸せなのではないか、と。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘