「このことを聞け。貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける者たちよ。お前たちは言う。『新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。
エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう。』主はヤコブの誇りにかけて誓われる。
『わたしは、彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない。』」(アモス8:4−7)
紀元前8世紀頃、預言者アモスは主からの御言葉を北イスラエルの人々に取り次ぎました。当時、北イスラエルはヤロブアム二世の治世下、経済的にとても繁栄していた時代でした。不思議と宗教生活も活発だったのです。
ところが、人々は礼拝に出ていても、どのように儲けるかを考え、主の安息日が早く終わることを求め、結局、心そこにあらずの形ばかりの信仰生活でした。
そうしたイスラエルの人々に対してアモスは裁きを伝えるわけですが、そこに見られるのは神さまの忍耐です。忍耐を前提とした裁きです。
上手くいっていれば、神に喜ばれており、上手くいかなくなってきたら、それは私たちが悪いことをしているからだ、と単純には解釈できない状況が、私たちの置かれている現実です。まさにコロナ禍がそうでしょう。
つまり、神のなさることは、時には私たちには理解できないこともありうるのです。でも同時に、私たちには理解できなくても、神が不当なことをしておられるわけではないでしょう。
預言者イザヤが、「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道は、あなたたちの道と異なると主は言われる。
天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」と語っているとおりです(イザヤ55:8−9)。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘