「さて、二年たって、・・・フェリクスは、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた。」(使徒24:27)
パウロが第三次伝道旅行を終え、エルサレムに上京した際、異邦人を連れて神殿に入ったと言う嫌疑で逮捕されてしまいます。
その後、エルサレムの兵営で説教し、ユダヤ最高法院で弁明し、カイサリアに送られ裁判を受けることになりました。ところが、そこカイサリアでさらに二年間足止めされるのです。
この出来事は、人間的には時間の無駄としか思えません。しかし神の視点から見る時に、そこに周到な神による準備があったことに気づくのです。
私たちは、それが後になってから気がつくのですが、その最中は、なかなか気づかず、不安に思い、投げ出してしまいたくなるような思いを抱きます。
しかし実際にはそうした中で、神さまのご計画は着々と前進しているわけなのです。何故でしょう。それは、神さまの関心が、結果だけにあるのではなく、そのプロセスにあるからです。
ここでパウロは、カイサリアにおいて二年間「足止め」されました。でも神さまの目からご覧になる時、そこには何一つ無駄はないのです。
実は、この二年間でパウロは、本当に素晴らしく霊性が磨かれ、この後、エフェソ、フィリピ、コロサイという獄中書簡を書くパウロへと練り清められていきました。
さらにまた宣教戦略の構想を練りあげ、そのための祈りの備えをする二年間であったと言えます。
神さまは計画の前進と共に、プロセスをも大事になさるお方です。計画に参与する私たちを、その働きの中で成長させてくださるのです。
コロナ禍も二年目に突入しました。
私たちの神さまは、「無意味な足止め」としか感じられない出来事をも、次のステージへ導くうえでの布石として用いることがお出来になる方であることを、決して忘れないようにしたいものです。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘