「今や、わたしの神、主は・・・」(列王記上5:18)
高座教会は「四世代が喜び集う教会」を祈り求めています。私は一代目クリスチャンですが、子どもたちは二代目クリスチャンです。
皆様の中には、三代目、四代目クリスチャンの方も結構おられるでしょう。それは恵みである一方で、ともすると信仰が受身的、ただ単なる習慣になってしまう恐れがあります。
ある時、イエスさまも、12弟子を前に「人々は私のことを誰だと言っているか」と尋ねました。
私たちは、父母、あるいは祖父母の世代から受けた恵みを、もう一度、自分のこととして受け止めることが必要です。
ソロモンは、父親ダビデの信仰を、自分のこととして受け止めていたということです。そのことを物語る言葉があります。それは「わたしの神、主」という表現です。
私は思いました。普通でしたら「わたしたちの神、主」と言ってもよかったでしょう。何故、「わたしたちの」とは言わずに「わたしの」と言ったのだろうか、と。
主なる神さまは、確かに父親ダビデの信じた神であることは間違いないのですが、同時に、今の自分を支え、生かし、救い、守り、導いてくださるお方として、
ソロモンは主なる神さまとの出会いを経験したからです。
「わたしの神、主」という表現の仕方は、まさに「神の孫」から「神の子」に脱皮し、ぶどうの枝である父親ダビデにつながり、恵みのおこぼれをいただく歩みから、
ぶどうの木である神に直接繋がり、直接、聖霊の栄養をいただいている、その恵みに感謝するように、「わたしの神、主」と告白しているわけなのです。
「わたしの」「わたしの」と言って、神さまを独り占めしているわけはありません。むしろ主体的に主への信仰を表明して生きている姿がそこにあるのです。
私たち大人も子どもも一緒になって、「わたしの神、主よ」と、神さまに向かって日々成長していきたいものです。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘