「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを受け入れ、一緒に食事をしている』と文句を言った。 そこで、イエスは次のたとえを話された。」(ルカ15:1−3)
ルカによる福音書15章には、神さまの愛を教える三つの譬え話がイエスさまによって語られています。 一つ目はいなくなった1匹の羊を探し求める羊飼いの話。二つ目はなくなった銀貨を必死になって探す女性の話。そして、もう一つは放蕩息子の帰りを待つ父親の話です。 第一番目と第二番目の譬え話は、羊飼いにしろ女性にしろ失った羊や銀貨を必死になって探すのですが、三つ目の譬え話に登場する父親は動かずにじっと待っている姿が語られています。 私は最初、何故だろうと思いました。よく考えてみますと、最初の二つの譬え話に出てくる羊も銀貨も、共に人格のない動物、貨幣です。それに対して三つ目の譬え話に登場する放蕩息子は人格をもった人間なのです。 つまり、この三つ目の譬えを通して神さまは私たちの側の応答、レスポンスを待っておられるお方である。神さまのそのような人格的な側面を、イエスさまは伝えたかったのではないかと思いました。 ともすると私たちは、自分自身を見て、こんな自分ではダメだと思ってしまうことがあります。もっと色々なことが整理されてからでないと、クリスチャンと呼ばれるにはふさわしくない、と考えます。でも、神さまは、そのままのあなたを求め、あなたからの応答を期待しておられるということなのです。 聖書の教えの基本は、私たちは立派になってから洗礼を受けるということではありません。そうであるならばいつまでたっても立派になれません。クリスチャンになるということは、放蕩息子のように愛の神さまのふところに飛び込んで行くことなのです。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘
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