「私は言った。『ああ、災いだ。私は汚れた唇の者/私は汚れた唇の民の中に住んでいる者。しかも、私の目は/王である万軍の主を見てしまったのだ。』」(イザヤ6:5)
紀元前750年頃、南ユダの王ウジヤが死んだ年、預言者イザヤは神を礼拝するために神殿に行きました。「私は、高く上げられた玉座に主が座っておられるのを見た。その衣の裾は聖所を満たしていた」(1)とあるように、その時、主の幻を見たのです。 聖書を読むと、主なる神と出会った人の多くが、自分の罪や汚れに気づかされる経験をしているのが分かります。預言者イザヤもその一人でした。 あなたは礼拝や御言葉と祈りの時を通して、神さまから罪や汚れを示されたことがありますか?そのような時、あなたは、神さまにどのように応答したでしょうか? 『神を体験する』のテキストを書いたブラッカビー牧師は、生ける神さまとの出会いを経験した者は、以前と同じままの自分であり続けることは不可能である、と語っています。 主なる神さまとの出会いを経験する時に、人は必ず変えられていきます。 この時、預言者イザヤは、主なる神さまとの出会いを通して、彼が生きていた社会がいかに神さまの基準からかけ離れた状態にあったかを思い知らされました。それと共に、その社会の中にどっぷりとつかっていた自分に気づかされ、いつの間にか、聖書の価値観ではなく、この世の価値観を当然と思っている自分を知らされていったのです。そして深い悔い改めへと導かれていきました。 あなたはテレビやマスコミの考え方に、何か違和感を覚えることはありませんか?あるいは逆に、聖書の価値観に違和感を覚えるでしょうか? そのような違和感を覚える理由がどこにあるのか、立ちどまって考えてみてはいかがでしょうか。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘
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