「バビロンの王ネブカドネツァルが連れ去った捕囚の民のうち、この州に帰還した人々は次のとおりである。彼らはエルサレムとユダのそれぞれの町に帰った。」(ネヘミヤ7:6)
イスラエルの民がバビロン捕囚を経験した後、ペルシャのキュロス王の解放令が出されました。聖書はその背後に、神さまの恵みの御手があったことを伝えています。 このような主の恵みの中で、自由を得た民たちに託された責任が、神殿再建、神殿のあるエルサレムの城壁の再建でした。しかし、それは、ただ単に建物や壁を修復する以上の理由がありました。 ともすると私たちは、最終的な目的を忘れて、一歩手前のところの手段を目的化することがよくあります。神殿は神さまを礼拝する場であり、城壁は安心して礼拝を捧げる事ができるために用いられていくものです。 つまるところ、神殿再建や城壁再建とは、いままで遠く離れて異郷の地にちりぢりばらばらに生活していた神の民が、ふたたび一つとされて、神を礼拝する。イスラエルの民の本来の存在理由である、神を礼拝する礼拝共同体の再建こそが、その目指す所であったことを覚えておきたいと思います。 ですから、捕囚後に書かれた旧約聖書を見ますと、長々と系図や名前が出てきます。歴代誌もそうですし、今日の箇所であるネヘミヤ記七章に出てくる名簿はエズラ記二章に出てくるものとほぼ一致しています。つまり、礼拝共同体の再建には、誰が、神の民なのか、誰が中心となる礼拝者なのか、という問題が必ず付きまとうわけです。 とすると、何が言えるでしょうか。そうです。礼拝共同体の再建ということは、一人ひとりが礼拝者、すなわち、神の民としての自覚抜きには起こり得ないことである、ということでしょう。 私たちは神さまを礼拝する者として生かされていることを、今日も覚えて一日を過ごしていきたいものです。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘
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