「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる」(新共同訳 箴言16:31)
先日、ある教会員から、「先生、白髪増えましたね」としみじみと言われました。 駆け出しの牧師の頃、白髪を見つけると喜んだものです。若造の私は人生の先輩方の心の琴線に触れるような話が出来ず、せめて髪の毛でもと思ったからです。でも、いつの間にか歳はとるし白髪も増えるものです。 歳をとると力が衰えます。人のお世話になることも多くなり、生きがいや心の平安を見失うことも起こります。でも聖書は、そうした中でも「白髪は輝く冠」のような生き方があることを教えています。 それは、必要なものを自分で獲得し、ため込んできたもので生きていく生き方ではなく、必要なものや足りないものを、まず神さまに祈り求めるという生き方です。 レストランでは最初に水が出されます。その水を飲みほすと、再びコップに水を注いでくれます。また飲み干すとまた注いでくれる。必要なものを神さまに祈り求めるとは、こういうことではないかと、ある先生は話しておられました。 空っぽになって「何もありません」と言うと、神さまは恵みの水を注いでくださいます。 ですから、神さまに求める。言い換えれば、祈ることです。祈ることでしたら、どこでも、横になっていてもできることです。 そして、もう一つ。聖書の言葉を少しずつでも読むことです。聖書の言葉で心のコップが満たされるためです。そこには次のような恵みの循環が始まります。
①《神さまが生きがいを与えてくださる》 → ②《生き生きとしてくる》 → ③《心に満足と平安が満ちてくる》 → ④《人が周りに集まってくる、またイエスさまも一緒なので淋しくない》
聖書が説く「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる」というのはこういう生き方です。神に従う道にとどまり、輝く歳のとり方をしていきましょう。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘
ご感想は下まで(スマホ・パソコンの方向けです) forms.gle/j3zkw1Rccd6Y1bSg6
発行者名:高座教会 連絡先:info@koza-church.jp 住所:大和市南林間2−14−1
先日、ある教会員から、「先生、白髪増えましたね」としみじみと言われました。 駆け出しの牧師の頃、白髪を見つけると喜んだものです。若造の私は人生の先輩方の心の琴線に触れるような話が出来ず、せめて髪の毛でもと思ったからです。でも、いつの間にか歳はとるし白髪も増えるものです。 歳をとると力が衰えます。人のお世話になることも多くなり、生きがいや心の平安を見失うことも起こります。でも聖書は、そうした中でも「白髪は輝く冠」のような生き方があることを教えています。 それは、必要なものを自分で獲得し、ため込んできたもので生きていく生き方ではなく、必要なものや足りないものを、まず神さまに祈り求めるという生き方です。 レストランでは最初に水が出されます。その水を飲みほすと、再びコップに水を注いでくれます。また飲み干すとまた注いでくれる。必要なものを神さまに祈り求めるとは、こういうことではないかと、ある先生は話しておられました。 空っぽになって「何もありません」と言うと、神さまは恵みの水を注いでくださいます。 ですから、神さまに求める。言い換えれば、祈ることです。祈ることでしたら、どこでも、横になっていてもできることです。 そして、もう一つ。聖書の言葉を少しずつでも読むことです。聖書の言葉で心のコップが満たされるためです。そこには次のような恵みの循環が始まります。
①《神さまが生きがいを与えてくださる》 → ②《生き生きとしてくる》 → ③《心に満足と平安が満ちてくる》 → ④《人が周りに集まってくる、またイエスさまも一緒なので淋しくない》
聖書が説く「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる」というのはこういう生き方です。神に従う道にとどまり、輝く歳のとり方をしていきましょう。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘
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