「自分が幼い頃から聖書に親しんできたことをも知っているからです。」(Ⅱテモテ3:15)
ある牧師が「聖書の御言葉を自分の母国語としてください」と語っていました。それを聞きながら、〈どういう意味だろう〉と考えたことを覚えています。 私も幾つかの外国語を習ってきました。文法を学び、辞書の引き方を身につけ、次に簡単な文章を辞書で引きつつ読み進めます。そのようにして学んでいきます。 でも「マスターしましたか?」と訊かれたら、なかなか「はい」とは言えない状態です。でも羨ましいことに母国語でもないのに、母国語のように外国語を流暢に使いこなす人も結構います。 冒頭でご紹介した牧師によれば、私のような学び方では信仰は学べない。あくまでも「聖書の御言葉を自分の母国語としてください」と勧めていました。 ところで、流暢に外国語を使いこなす人がいたとしても、魂の奥底にある思いなどは母国語でなければ「しっくり来ない」と言われます。身につけた外国語ではどうしても限界があるからです。 では、母国語はどのように身についたのでしょうか。まさに「母国語」と言われるように、生まれたとき、すでに周囲に両親や家族など本当に親しい人たちがいて、そうした関係にある人たちが私に向かって語りかけてくれ、それを聞き続けた結果、不思議なほど自然に私自身の言葉になっていった。それが私にとっての「母国語」なのではないでしょうか。 これを信仰に当てはめるならば、神との親しい関係の中で、聖書を通して語られる、そのお方の語りかけを聴き続けていくこと。その結果、聖書の言葉が私にとっての母国語になっていくということなのです。 今朝も神さまは、聖書の言葉を通し、あなたに親しく語っておられます。それを聞き続けてくださいね。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘
ご感想は下まで(スマホ・パソコンの方向けです) forms.gle/j3zkw1Rccd6Y1bSg6
発行者名:高座教会 連絡先:info@koza-church.jp 住所:大和市南林間2−14−1
ある牧師が「聖書の御言葉を自分の母国語としてください」と語っていました。それを聞きながら、〈どういう意味だろう〉と考えたことを覚えています。 私も幾つかの外国語を習ってきました。文法を学び、辞書の引き方を身につけ、次に簡単な文章を辞書で引きつつ読み進めます。そのようにして学んでいきます。 でも「マスターしましたか?」と訊かれたら、なかなか「はい」とは言えない状態です。でも羨ましいことに母国語でもないのに、母国語のように外国語を流暢に使いこなす人も結構います。 冒頭でご紹介した牧師によれば、私のような学び方では信仰は学べない。あくまでも「聖書の御言葉を自分の母国語としてください」と勧めていました。 ところで、流暢に外国語を使いこなす人がいたとしても、魂の奥底にある思いなどは母国語でなければ「しっくり来ない」と言われます。身につけた外国語ではどうしても限界があるからです。 では、母国語はどのように身についたのでしょうか。まさに「母国語」と言われるように、生まれたとき、すでに周囲に両親や家族など本当に親しい人たちがいて、そうした関係にある人たちが私に向かって語りかけてくれ、それを聞き続けた結果、不思議なほど自然に私自身の言葉になっていった。それが私にとっての「母国語」なのではないでしょうか。 これを信仰に当てはめるならば、神との親しい関係の中で、聖書を通して語られる、そのお方の語りかけを聴き続けていくこと。その結果、聖書の言葉が私にとっての母国語になっていくということなのです。 今朝も神さまは、聖書の言葉を通し、あなたに親しく語っておられます。それを聞き続けてくださいね。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘
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