松本雅弘牧師の日々のみことば

月曜から金曜の毎朝、高座教会の牧師からメッセージをお届けします

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罪を示されたなら

「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(1ヨハネ1:9)

 アダムとエバは罪の責任を逃れるためにありとあらゆることをしました。アダムは「彼女が私にその木から取って与えたので食べました」と言って自らの過ちをエバのせいにしました。
それだけではありません。神さまに向かっても「あなたが私と一緒にしたその女が私に食べさせたのです」と、神さまのせいにもしています。
一方エバはエバで「ヘビがだましたので食べました」とヘビに責任をなすりつけました。心痛めた神さまは彼らの言い訳を取り上げようとはせずに裁きを宣告したのです。

 ある牧師は「私たちが経験する悲しみの原因の一つは自分がやったことなのに人のせいにしてしまうことにあります。罪が示されたのなら正直に告白し、神さまに赦しを求めなければなりません」と話していました。
私たちも「親が手をかけてくれなかったから」「友だちが意地悪だから」「子どもたちが反抗的だから」「上司が配慮に欠けた人だから」「理解のない伴侶だから」「毎日忙しいから」と言って誰かや何かのせいにしてしまいやすいものです。
でも本当の意味でキリストの恵みと平安をいただくためには、そうしたことを止め、自らの過ちを認め、素直な心で「ごめんなさい。弱い私を助けてください」と神さまに赦しと助けを祈り求めることが大切です。

 イエスさまが来られたのはあなたを裁くためではありません。あなたを救い、赦しを与えるために来られたのです。そのことを忘れないでくださいね。
今日の一日、キリストの恵みと平安があなたの心を支配してくださいますようにと祈ります。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

神さまに愛されているあなた

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。・・恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。」
(イザヤ43:4a、5a 新改訳)

 イスラエルの初代の王はサウルです。彼は、「美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。
民の誰よりも肩から上の分だけ背が高かった」と聖書に紹介されているほど、容姿端麗で人気があり、その結果、大勢の人によって推されて王になった人物です。

 しかし、王様になった後の彼はまさに見かけ倒しでした。「サウルは勇敢な男、戦士を見れば、皆召し抱えた」と聖書は伝えていますが、こうした彼の行動は自信のなさの裏返しです。
また、ある時、預言者サムエルがサウルに向かって語りました。「あなたは、自分自身の目には取るに足らない者と映っているかもしれない。
しかしあなたはイスラエルの諸部族の頭ではないか。主は油を注いで、あなたをイスラエルの上に王とされたのだ」と。結局、サウルという人は、自分自身を取るに足りない者と見ていたということなのです。

 ところで、あなたは、ご自分のことを、どのように見ていますか? サウルと同じように「自分なんて取るに足りない」と感じる誘惑に負けていませんか?
でも神さまはあなたをどのように見ておられるのでしょうか? そのことこそ、サムエルがサウルに伝えたかったことなのです。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。・・恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ」。

 主にある自信をもって、今日の1日、雄々しく歩みたいものです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

神さまが用意してくださる武具

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」
(エフェソ6:10−11)

 悪魔が恐れることは、あなたがぶどうの木であるキリストにつながっていることです。
あなたが「御言葉に生きよう!」と立ち上がると、「これは大変だ!」と悪魔も急いで立ち上がるのです。あなたが眠りこけていれば、悪魔も、動く必要がありません。寝た子を起こすことほど馬鹿げたことはないからです。

 では悪魔の策略って何でしょうか? 例えば、私たちの心を聖書や神学の知識、信仰生活に関する知識の蓄積のみに向けさせることです。
そのようにして「知的満足」や、何かをやり遂げた時に感じる、ある種の達成感に、私たちの心を縛り付けておくことができたら、悪魔は「してやったり!」と思うのです。
 ある人が「良い事と悪い事を見分けることは比較的たやすい。でも良い事と最善の事を見分けることほど難しいことはない。なぜなら、最善の事に対する敵、それこそ、実は良い事それ自体だからだ」と語っていたことを思い出します。
この言葉を借りるなら、悪魔は良い事であなたの関心、あなたのスケジュール、あなたの心を満たそうとします。それによって、あなたを、最も良いお方であるイエスさまから遠ざけようとするのです。

 私たちが生活している現実世界は、悪魔が考えに考えた策略が渦巻くところです。
でも、安心してください。悪魔よりも偉大なお方が神さまですから。そのお方が悪魔の策略に対抗するための武具を用意しておられます。
その武具こそが、「信仰生活の5つの基本」です。これによって最も良いお方であるイエスさまにつながり続けていきましょうね!

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

閉ざされた道の横に

「ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。その夜、パウロは幻を見た。」(使徒言行録16:7−9a)

 使徒パウロはシラスとテモテと共に宣教のためにアジア州へ渡ります。ところが、そこで聖霊が彼らの歩みにストップをかけられたのです。
悪いことをしていてストップがかかるのは当たり前です。でも、宣教することは御心であり、地の果てまで福音を伝えることはイエスさまのご命令です。ところがその「イエスの霊」である聖霊が道を閉ざされたのです。
 しかし話はそれで終わりませんでした。そこで立ち止まり御心を求めて祈ったパウロに、今度は「マケドニアの幻」が示され、後の教会史に絶大な影響をもたらすヨーロッパへの伝道のきっかけが与えられていくことになりました。
ですから、あの時、道が閉ざされていなければ、そのことで立ち止まり祈ることもなく、ましてやヨーロッパ伝道につながる「マケドニアの幻」を示されることもなかったことでしょう。

 ところで、今、あなたは道が閉ざされるような経験をしていませんか?
私たちはだれでも、受験、就職、結婚、不慮の病など、そうしたことによって人生の岐路に立たされ、道が閉ざされるような経験をすることがあります。
でも振り返ると、道が閉ざされたことによって、より豊かな神さまの恵みにあずからせてくださったとしみじみ思える時が必ずやってきます。
ですから希望を持つことができる。ギリギリのところで失望せずに守られるのです。
なぜなら、閉ざされた道の横に、恵みの深みへと導く別の道を、神さまはあなたのために用意しておられるからです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

聖書は神さまの手紙

「イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイ4:4)

 C・S・ルイスの名著に『悪魔の手紙』という作品があります。スクルーティプという名前の悪霊と甥のワームウッドという名前の、これまた悪霊との間に交わされた往復書簡という形で書かれていきます。
 悪霊ですから、彼らにとっての敵は神さまです。彼らの使命は人間をこの「敵」すなわち神さまから守ることです。
どのようにしたら敵から人間を守ることが出来るのか、ということを経験豊かな叔父のスクルーティプが、甥のワームウッドに手ほどきする形で作品は進んでいきます。例えば、こんな言葉が出てきます。

「彼らが敵自身(神さま)に注意を向けている時はいつもわれわれの負けである。しかしそうさせない方法がある。いちばん簡単な方法は、彼をみつめずに自分自身をみつめさせることである。・・」とか、

「われわれの仕事は彼らを永遠から、そして現在から遠ざけることである。この目的を持ってわれわれは時々人を(たとえば未亡人または学者を)過去に生きるよう誘惑する。
しかし、これには限られた値打ちしかない。というのは、彼らは過去について幾分真の知識を持ち、その知識は決定的な性質を持ち、その限りでは永遠に似ているからである。
彼らを未来に生きさせる方がはるかによい。・・」

 ルイスは、この作品を通し、私たちがどのような仕方で常に誘惑にさらされているのか、ということを記し、その逆を行くようにということを示したかったのでしょう。
 悪霊同士が手紙をやり取りして、これだけ真剣になって「敵」である神さまの働きの邪魔をすることに精力を注いでいたとするならば、私たちもそれ以上の熱心さをもって、
真の敵である悪魔に対抗するためにも、「神の手紙」である聖書を熱心に読みたいと思います。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

蜘蛛の糸

「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:5)

 クリスマスと言うと、何か牧歌的なイメージを思い浮かべるところがありますが、現実はまさに激動の時代だったと思います。
皇帝の勅令で身重の女性も、有無を言わせず長旅を強いられ、旅先で生まれた嬰児が飼い葉桶に寝かされるような時代です。時の為政者ヘロデ王の心に生じたちっぽけな「不安」のために幼児の大虐殺が行われ、イエスさまの家族も、「政治難民」としてエジプトに避難しなければならなかった時代です。
そのような意味でも、闇の深い暗闇の時代でした。

 クリスマスの時期になると思い出すお話があります。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』です。
地獄の底で多くの罪人がうごめいている中にカンダタという男がいたと語り始めます。彼は人殺しや放火をした大罪人でしたが、一度だけ蜘蛛を殺さずに助けたことがあったので、お釈迦様がこのことを思い出し、彼を救うために地獄に蜘蛛の糸を垂らしたというお話です。
まことの主なる神さまは糸だけ垂らし、それで善しとする方ではありません。神さまは、赤ちゃんの姿となって、その闇に飛び込んできてくださったのです!
カンダタのような私たちと共に生きることを決意なさって、地獄のようなこの闇深き世界に飛び込み、喜びと悲しみを分かち合い、十字架の死と復活をもってほんとうの救いの道をひらいてくださったのです。その始まりの祝いがクリスマスなのです。
そのことを心に抱いてアドベントの期間を過ごしていきましょう。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

神の決心

「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」
(マタイ1:24−25)

 ヨセフは、この世界において立身出世をした人物ではありませんでした。ごく普通の大工さん、私たちと同じでした。しかし、ヨセフが主の御心を選択したがゆえに、主はヨセフを祝福してくださったと、聖書は伝えているのです。
「選択」ということを考える時、私たちの人生は、日々小さな「選択」の連続、言いかえれば「小さな決心」の連続だということに気付きます。
1つの選択によって、その人のこれからの人生が定まっていくにとどまらず、周りの人の人生までもが大きな影響を受けることになる、そのような大きな決心となる時もあるのです。
 今日の箇所にはヨセフの決心があります。しかし、ここには、もう1つの決心、神様の決心もあったのです。
カール・バルトは、「神はイエス?キリストにおいて、永遠に罪人と共にあることを決意された」と語りました。
ヨセフの決心も、実はこの神様の決意を知り、その愛に圧倒されて、マリアそして御子と共に生きることを選んだものでした。クリスマスとは、神様が私たちと共に生き、私たちを生かして用いようとされる神様の愛の選択、《インマヌエルの決心》の時です。
神様は十字架のどん底までも私たちと共にいてくださるのです。だから、私たちにも神と共に生きる新しい決意が生まれるのです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

振り向くとき

「天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。」
(ヨハネ20:13,14)

 マグダラのマリアは、復活のイエスさまと最初に出会った人物でした。
ペトロと一緒に墓に来てみたのですが、イエス様の死体は見つからず、マグダラのマリアだけが墓で泣いていました。墓にいた天使が尋ねると、マリアは天使に答え、彼女は後ろを振り向きました。するとそこにイエスさまが立っておられたのです。
この出来事は、きわめて象徴的な出来事のように思います。後ろを振り向く、今までの歩みと正反対の方向に復活の主がおられた、ということです。
聖書には「悔い改め」という言葉が出てきます。これはギリシャ語で「メタノイア」という言葉です。直訳すると「方向転換」という意味で、聖書の中では非常に大切な言葉です。
マリアにとっての復活のイエスさまとの出会い、それは、彼女の生きる姿勢そのものが根本的に変えられ、方向転換する出来事だったことを福音書は伝えようとしているのです。それは、まさに聖書の教える「悔い改め」の経験そのものでした。
 復活のイエスさまを知るということは、私たちの生活の延長線上にある出来事ではありません。聖書の言葉を通して語りかける神さまの御声に促され、私たちの生き方、あるいは生きる姿勢そのものを方向転換する出来事なのです。
 その結果、彼女の心の目が開かれていきました。そして、それがイエスさまであることを知ったのです。イエスさまを、墓の中に一生懸命探していたマリアでしたが、それまでの歩みの方向を転換したところに、復活の主が待ち受けておられたのです。
そこにマリアの新しい人生が開かれていきました。
「悔い改めて」、すなわち、私たちの今までの歩みの延長線上ではない、神さまの御言葉に導かれる新しい方向に歩み出すとき、そこで私たちは復活のイエスさまと出会うのです。
イエスさまにある新しい歩みが用意されているのです。そのことを覚えながら、今日一日を歩んでいきましょう

 いってらっしゃい

 牧師 松本雅弘

クリスマスの思い出

「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。」 (詩編34:9)

 以前、あるクリスチャンの雑誌を読んでいましたら、次のようなお話が紹介されていました。
 ある学校の先生に12歳になる娘さんがいたそうです。その先生の奥さんが急に天に召されたのです。その日から、12歳になる娘さんの母親役まで、彼はしなければなりませんでした。
しかし、学校の教師という忙しい仕事の中にあります。ですから、我が子のために十分な時間をとれずに、いつも心を痛めていました。そんな中で、彼はクリスマス休暇が来るのを楽しみにしていました。
親子水入らずで、久しぶりにゆっくりとした時間を過ごせると思ったからです。ところが、休みが始まった最初の日、娘は自分の部屋に入ったきり、外に出てこないのです。
かろうじて食事の時には出てくるのですが、その他の時間は、部屋にこもりっきりでした。クリスマスまでそれが続きました。クリスマス休暇を、楽しみにしていた父親は、次第にイライラしてきました。
とうとうクリスマスの朝になりました。朝起きて、リビングに行きました。そこにはアドベントからずっと、ツリーが飾られていたのですが、その朝、そのツリーに、毛糸で編んだ男ものの一組の靴下がぶらさがっていたのです。
その子が、お父さんのために、と思って、一生懸命編んでいたのです。彼女は、目をキラキラさせながら、お父さんに言いました。「クリスマスまでに完成させるのに、気が気じゃぁなかったわ。お父さんの靴下よ。素敵でしょう?」
父親はそう語る娘に涙を見せまいと、彼女をギュッと抱きしめました。そして、心の中でこのように言ったのです。「お父さんは靴下よりも、お前と一緒に時間を過ごしたかったんだよ!」と。
 「親の心、子知らず」という言葉がありますが、私たちも、主なる神様がどれほど、私たちとの会話の時間、交わりの時間を求めておられたのに、私たちは一生懸命「その神様のために」と、何かすることに忙しく過ごしていたのではないでしょうか。
そうした神様の思いを知らずに、主の御前に過ごす時間がいかに貧しかったかと思います。神様は、この父親のように、主の前にやってくる私を抱いて、涙を流されるのではないでしょうか。
ぜひ、アドベントの期間、主の御前に静まり、語り合う時として過ごしていきたいですね。

 いってらっしゃい

 牧師 松本雅弘

新鮮な思いで聖書を読む

「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。」(?ペトロ2:2)

 ある方が面白いプリントを見せてくれました。マルコの福音書を最初から終わりまで「ベタ打ち」したもので、章や節の番号もありません。ましてや小見出しなどは一切付いていません。
 では、それをどのように使うかと言うと、次の3つの質問を手掛かりにして、新鮮な思いで聖書を読むために使うのだそうです。

 第1は、「何が書かれていますか」という問いです。神さまについて、イエスさまについて、聖霊について、人間について、様々な事柄について等、何が書かれているのか、を「観察」します。
 第2は、その書かれていることが、「一体、どのような意味なのか」を問うのです。
イエスさまが十字架にかかられる直前、弟子のペトロはイエスさまを裏切りました。彼は3回、「そんな人は知らない」と、主を否みます。そして深い悔い改めへと導かれていきました。
そんなペトロに復活した主が現れて、3回、「あなたは私を愛するか」と問われたのです。ペトロの3回の否認とイエスさまの3回の問いかけとの間に、何か関連性はないのかを問うてみるのです。これが「解釈」と言う作業です。
 そして、最後3番目に、「今の自分に何を語っているか」を問うのです。私に語られた言葉として聖書を読む作業です。これを一般に「適用」と呼びます。

「観察」、「解釈」、「適用」を意識に留めて、ベタ打ち聖書を、ラインマーカーやペンを使って自由に線や書き込みを入れて読む時に、様々なことが発見でき、とても新鮮に聖書を読むことが出来るのです。

 さて、あなたは「ベタ打ち」の聖書を持っておられないから駄目だとあきらめないでください。読みなれた聖書でも結構です。この3つの問いを手掛かりに読むことを試してみてください。
これまでとは違った新鮮な思いをもって読むことが出来るかもしれません。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘